NATUREINTERFACE.COM
ネイチャーインタフェイス株式会社 info@natureinterface.co.jp TEL:03-5222-3583
ネイチャーインタフェイス > この号 No.01 の目次 > P094-096 [English]

地球環境財団より -- 福岡 克也


p94-99

ネイチャーインタフェイスの状況と主体を考える

森と水の思想から

(財) 地球環境財団理事長 立正大学大学院教授 福岡克也

現世利益にみるネイチャーインタフェイス

 人間は常に自然に対して加害者であり、また時に被害者ともなる。自然への過度の介入や過度の利用は、自然そのものを破壊し、生命の基盤を失わせる。自然はその危険を身を以て示している。われわれは日頃から自然の摂理を考え、その理たるエコロジーを知り、健全な自然観を養っておかなくてはならない。

 われわれ人間は、自然の生物たちに代わって、自然破壊を事前に防止する具体的な行動をとれる理解と勇気を持っていなくてはならない。

 しかし、われわれ日本人は、欧米人など他民族に比べて、彼らより優れて自然を知り、かつ愛してきたといえるだろうか。確かに、国土の六八%は森林地帯で、自然に囲まれている比率は高い。しかし、山は険しく流れは速く、台風が来襲すれば洪水は頻発して自然災害は激しい。それにもかかわらず、山を崩し,木を伐って開発を進め、自然の破壊を広げているばかりである。緑を失った都市は延々と続き、景観は緑のうるおいを失っている。必要のためとはいえ、あまりにも人工的で、雑然・殺伐とした都市が多い。こうした混乱した都市の構図は、緑の回復と再生を望む人心に反して、社会の意識の混乱と、収束を知らない実利的な価値の追求とを表現していると言わざるを得ない。

 日本人の本性というか、心のなかに持つ価値観の多様性というのは、洋の東西を問わず多くのノウ・ハウを吸収した受容力の結果である。工業化の原理を直ちに受け入れる準備体制が、江戸時代の頃から、儒教思想や寺小屋教育のなかに生まれ育っていたことは事実である。また、素質的にも、抜群の理解力と新技術を学ぶ学習力を持っていたことも確かである。社会的強制のもとでは、規律を守り、集団的なまとまりを持つこともできる。日本人の持つこうした総合力が、驚異的な近代化と経済成長に結実したことは否定できない。

 しかし、価値観の多様性のために、とかく分裂的となり、持っている価値観と価値観との間に矛盾を生じたり、それらの落差が大きく広がり摩擦を生じたりする。そのようなとき、外国人には全く理解しがたいような異常で残酷な行動が、突如平然として生まれる。時折、日本を訪れる外国人の目に、日本人の心の深層に秘められた影の部分があると映るのも、日本人の分裂した価値観の裂け目からにじみ出るものである。自然の秩序に従い、それを尊んだ日本人の美風を知る者にとって、突然の破壊的行動は大きな驚きとしてとらえられることになる。

 古代から、自然秩序に従う日本人の心情は、山づくり森づくりにも現れていた。古く杣夫たちは、木をきる前に、大木にしめ縄を張り、お酒を捧げて、山の神へ祈ったと伝えられている。熊野三山、出羽三山などの山岳信仰が人々に普及していたのも、自然のなかで生きた日本人の心のシンボルであった。

 山を守り木を大切にする心は、このような日本人の伝統のなかに位置づけされていた。

 日本海側の鳥取砂丘や庄内砂丘などにみられる砂防林も、自然の暴威に対して、日本人が自らの生命と生活を守るために、森林を造成し、森林を利用して防風と砂丘の移動を止めてきた闘いの歴史を示すものである。こうした自然とともに生きた日本人の歴史が、木曽のヒノキ、秋田のスギ、青森のヒバのような、貴重な自然の資源を後世に残し、吉野のスギや北山のスギのような美林を育て上げた活力源になったといえるのである。

 しかし、こうした古き良き伝統も、今ではその影を大方ひそめてしまい、広汎な日本人のイデオロギーとして真に安定してその所を得たものではなくなってしまった。

 高度工業国家建設への過程で、全く情況は変化し、分裂した価値観の裂け目から、伝統を破るような自然破壊が、歴史のカタストロフィーとして生まれ出た。日本人の自然愛をこの歴史のカタストロフィーの前で、今なお認めようとすれば、それは感情的弁護論でしかない。事態を冷やかに眺めなおせば、この自然破壊の裏に神を恐れぬ徹底した日本人特有の機能主義が流れていたことは無視できないであろう。

 森林のなかに生き、農耕で生活を立てる時代には、緑を大切にするが、森林を捨て、農耕から離れ、工業化に走るときは、自然の恩恵などは二の次の問題と片づけてしまう。自然には恵みを与えてくれる無限の可能性があると思い込んでいるか、あるいは科学の進歩で自然のお世話になることもないと過信しているか、いずれかの錯覚を自らつくり出しているかに見える。

 行動の規範が、このように情況によって支配されているとなると、日本人の行動の内面に秘められた意識を、根本的に変革する必要を生ずる。地球時代に入って、このような不明さはもはや許されないであろう。いまや本来持っていた日本人の自然観の再生に賭けらなければならないのだ。

共同体原理でみるネイチャーインタフェイス

 現世利益を尊び、情況主義で行動する日本人の社会に対して、山本七平氏は、「日本の社会は血縁の拡大による疑似的血縁集団の原理のみが存在する社会で、西欧的な意味での神との契約社会ではない」と評している。彼に従えば、日本の社会は神に向かっての正否よりも、話し合いをした仲間集団の論理に対して忠実か否かの方が重要だと考えている人間の社会ということになる。自然に対する日本人の行動も、こうした日本社会の歴史的一過程としてとらえなくてはならない。

 日本社会において、今日のような思想の混迷が続き、既存宗教の力にも陰りが見えているときには、もはや、神の意に従って自然を慈しむなどといった期待を国民の全てに対して抱くことはできない。このままでは、道は暮れ、自然全体はいうに及ばず、森すらも砂漠となりかねない。

 こうした道の暗さは知らず知らずのうちに広がっている。自然への愛も破壊も、疑似的血縁集団を構成する人間の機能主義の行方に全ての運命を賭けるしかなくなる。自然の保護にとってこの期待自体、不透明で壮大なギャンブルに等しい。

 未来への賭、これしか自然を守る手だてはないのだろうか。

 過去において、最も典型的な日本的自然管理システムは、入会林野や共有林野など、日本中に広がっていた共同体的な林野管理のシステムであった。そこでは、原則的に話し合いが存在し、共存共栄の原理に立った持分すら与えられるなど、自治的で自律的な自然管理の秩序がつくられていた。永続的な資源利用目的から、当然継続して利用を可能とするためのエコロジカルな配慮や経験法則が守られ、地力の調整のために、利用を休むこともあって、日本人の協調の能力が十分に生かされていた。この集団管理と集団経営の才能と資質は、日本人の遺伝子に引き継がれ、戦後は、先進的工業管理システムのなかにも生かされ、驚異的な生産力を発揮した。

 日本、いや世界において、地域的なエコシステムとしての自然を、人間が管理するためには、人間が人間としての仲間集団を組織して対応しなくてはならないであろう。人間の生きた仲間として、かの入会林野や共同体林野の時代と同様に、自然(森林)をそっくりそのまま取り組んでしまうしかない。人間と自然との間に距離をおかず、あたかも血縁的な関係にも等しい一体的な結合関係をつくり出す必要がある。まさに人間と自然との血縁幻想にも等しい一体性のもとで、はじめて人間の自然への働きかけを節度あるものとすることができる。自然を乱す人為に一定の限界を設け、自然をあたかも隣人のごとく大切に扱うことによって、自然の破壊を防ぐ手段を講じうるのである。このように共同体的な方法によって、共存共栄を図りつつ自然を守ることが、最も日本的な解決の方法であると考えられる。

 戦後、共同体的な管理システムは、「入会林野近代化法」によって、個別分割の憂き目をみ、時に永く保持しえない個別分割者の経済事情のために、経営的にも自然構造的にも決定的ダメージを受けるに至った例もある。入会林野の崩壊は、第二次世界大戦後の軍閥の解体、財閥の解体と並んで、日本の自然解体の一つであったといえよう。

 われわれが、自然秩序を、絶えざる資本の脅威や利潤目的の人為の手から、敢然として守り抜いていくためには、新たな時代に対するアスペクト(様相)において、人間と人間のシステムづくりと、自然と人間の共同体づくりとの二つを一つにして、疑似的血縁のイデオロギー集団にまとめ上げていくロマンの追求がなくてはならない。身近な森林組合、財産区、生産森林組合、部落共同体、その他林業グループ、企業をめぐる人的結合など、全ての機会と契機を利用するとともに、市町村などの地方自治体の役割も一層大きなものとなる。国有林・公有林なども、法制度の壁をとり除いた地域共同体の形成のなかに改めて位置づけることが必要である。林業労働者の労働組合も、こうした共同体づくりに大きな役割を果たすことが望まれる。

 今から見れば一昔前となったが、一九八二年夏のある日、東北と新潟を含むテレビ・ネットワークでの日曜番組「草柳大蔵の新サンデー・トーク」に、ゲストとして筆者が招かれた際、人間と自然との関係における文化の定位にかかわって草柳大蔵は、「森林のなかに人間が居住を占め、集団的に村をつくることによって、森林のエコロジーを生かしながら、所得を得、かつ自然を守っていくことが、森林文化の本質ではないか」と提言した。

 「民信なくんば立たず」という言葉がある。政治が政治たるためには、人間の信頼関係がなくては成り立たない。愛と信こそ、人間が生きる不可欠の条件である。自然に対しても同様である。「民愛なくんば立たず」である。人間は自然の生命力をエネルギー基盤として生きているのだから、ネイチャー・インタフェイスの再構築に将来の運命を賭ける必要がある。

ネイチャーインタフェイスの倫理

 今日において、自然的なものへの再発見が試みられているのも、人間が自らの歩んだ道をもう一度確かめ辿ってみることによって、確信の持てそうな進路を得ようという主体的な文化現象である。しかし、活力あるルネッサンスの道は単なる慣行への回帰で終わるのではなく、破壊された文化に対する人間の新たな自己定位(アイデンティフィケーション)にしかない。

 人間と自然とのかかわりの中での自己定位は、単に人間と自然との対立の解消と一体化を、観念として確立するだけではなく、現実には、哲学、宗教、道徳、経済、技術など、精神と科学の統合を学際的に展開していく過程を通して行われねばならない。

 人間の営為は、まさに、こうした分化活動の統一として行われるべきものであり、ヒューマニズムもナチュラリズムも、人間の営為の産物として、今日の新たな情況において、また、将来に対して、不動の価値基準を与えるものとして引き継がれねばならないものなのである。

 人間と自然の対応(文化)について、コリングウッドは、彼の『自然の哲学』において、一つはギリシャ時代の自然観の段階、二つはルネッサンス時代の自然観、三つは現代の自然観の三段階に分けている。

 すなわち、ギリシャにおいては、自然とは運動する物体の世界であり、それらの物体の運動を支配しているものは、本質的に生気・生命であると考えていた。自然はそれ自身、精神を持った理性的生き物であり、生命力を持つ巨大な動物であるということになる。特定な土地やそこに住む生物の生命力と叡智は、生気と理性の特殊的で局地的な有機体として位置づけられることになる。

 このようなギリシャの自然観では、自然はマクロ・コスモスであり、人間はそのなかのミクロ・コスモスと位置づけられるであろう。したがって、このような自然観のもとではマクロ・コスモスとミクロ・コスモスのアナロジー(類比)から自然の概念が構成され、人間も神も、世界の全てが自然に融合し、自然と人間は一つであって区分されることはなく、古来からの東洋、日本の自然観(人間と自然の一体観)ともほぼ変わらないものといえよう。

 この人間・自然一体観は、キリスト教の発展により、造物主としての神と、そのもとにある人間および自然を被造物として、区分することになった。ルネッサンスにおいては、自然が有機体でありそれ自体として生気・生命を持つという考えは否定され、自然は「自然の法則」に従って、秩序立てられ設計された全体のなかの各部の配列システムであると考えられるようになった。また、自然に対して上位にあると考えられた人間は、自然を超えて支配をなし得るものとして位置づけられた。

 ギリシャにおいて求められた宇宙の根本原理は、自然そのもののなかにあったが、ルネッサンス以降においては、宇宙の根本原理は人間と自然の対立、自然という神の作品と、科学・機械といった人間の作品の類比で説明されることになった。人間が優位となる自然に対して、人間は機械的に科学を駆使して自然を破壊するに至った。

 現代の自然観における自然は、コリングウッドによれば、ギリシャ時代に考えられていたように、循環して元へもどる回帰的安定的な性質のものではなく、常に新たなものへと変化することによって新たな世界を実現していく実体のもの、つまり前進的可変的な性質のものとして位置づけられている。自然は機械ではなく、常に発展をとげ、自然にあるものは常にそれ自身の生成活動において自らを維持しようと努める特質を持つ。自然の持つ構造上の特性は全て、自然の運動を通して、自然の機能・能力の発揮によって示されていくことになるのである。これは、自然を単に機械と同然にとらえるという機械論的自然観とは異なる観念、すなわち、時間の推移のなかで示される自然的機能の発現という長期動態的な自然観を意味するのである。

 一八世紀末から現代に至る自然観は、自然科学の対象である自然の過程と、歴史的研究の対象である人間的事象の推移との類比によって特徴づけられるとすれば、そこでは歴史が何であるかが明らかにされなければ、自然とは何かという問いには答えることができないということになる。現代では、基本的には歴史の観念、言いかえれば人間存在の真実を究めることに、この問題解明のカギが与えられることになり、自然科学と社会・歴史科学の統合が求められているともいえよう。

 この歴史的回答の一つとして、二〇世紀でのエコロジー運動を忘れることはできない。彼らは、自然と人間との歴史的かかわりについて、われわれに鋭い問題提起をつきつけている。

 

エコロジー回復のロゴス

 二〇世紀後半において、世界的な自然保護運動に対して決定的な影響力を持ったのはエコロジストたちの運動であった。経済サイドからの人類への警告として大きな契機となったローマ・クラブによる「成長の限界」、ドイツでの「緑の党(ディ・グリューネン)」による政治変革の波、いずれをとってみても、汚染や公害に象徴される現代の危機と矛盾にかかわらないものはない。そして、その思想の中核をなしたものがエコロジー運動である。エコロジストたちは言う「仲間たちよ走れ、古い世界は君のうしろだ」と。彼らの運動は、成長の活力を失い、汚染におかされてなお顧みることを知らない現代社会に対する反撃であり、「強制収容所にも匹敵する都市計画」「質を犠牲にする量の支配」「経済的価値による人間の疎外」「社会のなかの孤独」「コミュニケーションのメディア化」などの告発である。

 ローマ・クラブの「成長の限界」は、経済成長と自然に対する人間優位がいかに現実にくずれつつあるかを具体的に示したものである。経済サイドからは、マテリアル・リミテーション(物質の限界)が刻々と現実化されつつあることを深く悟らなければならない。

 今日までの人間の経済的発展は、人間を自然から分かち、人間と自然の共同体的結合を切断することによって、人間優位の自然利用・自然収奪の歴史的現実をつくり上げた。市場をめぐる人間の共同体は、ひたすら利益を追求しつつ、近代的合理主義の名のもとに自然を合目的的に再編成した。

 人間を自然と含めてトータルとして認識することなしには、科学や産業の偏った極端な進歩に、われわれはますます分裂を深めるばかりとなろう。アメリカで起こった科学的価値観の変化、すなわち、自然は生産活動の対象ではなく、人間の限界を知らない欲望の歯止めであり、公害を浄化する資源であるといった方向への思想の変化は、エコロジーによる科学運動の成果といえよう。

 森林についていえば、自然が、ギリシャにおいて存在する全てのものを包含したのと同様、森林も自然として、森林にかかわる全てのものを包含し、自然の存在のミクロ・コスモスとしての人間を、森林の広がりのなかで包含している。『森林の思考・沙漠の思考』(鈴木秀夫)のなかで、森林では人間は地表の一点に定着し、周囲の森林と真上の天をみあげる存在と位置づけられている。森林に住む人間は、適当な範囲で食料や生活の資材を探し求めれば、生存に対してさして思いわずらうことはなく、生が充満した人間と自然の一体の世界に生存することができるとしている。モンスーン的気候に恵まれたアジアにおいては、森林は安定した物的循環を繰り返すなかで、仏教を生み出し、輪廻転生の世界に人間をおいた。「山川草木悉皆成仏」という経文に示された人間の森林における文化の自己定位は、まさしく平等な自然観と安定し調和した生気と生命の世界に立つものであって、森林と人間の本質的ロゴス(宇宙を構成し支配する根本原理)を示すものである。

 しかし、人間は農耕と牧畜を知ることによって、次第に森林を伐り開き、森林を人間の目的に合う資源として利用しはじめ、人間に最適な人工的環境として森林をつくり変えることになった。砂漠化の進行はそれであり、人工林化もそれである。

 この傾向は、キリスト教を奉じ、近代合理主義と近代科学を生み出した西欧において特に顕著であった。すでに古ゲルマン時代における森林の利用は、薪材・木材の採取から家畜の放牧にも及び、利用の規制・森林の村落共同体による所有など、経済共同体の形成と自然からの人間の分離が制度化された。封建領主の時代においても、王侯貴族による森林の独占は、森林の利用と収奪を、より階級的な性質のものとして特徴づけていった。経済林の成立は封建領主に対する財産収入の保証から、やがて資本主義の登場とともに、ヨセフ・ケストラーの指摘するように鉱山業・精錬業などによる乱伐などを生み出し、紙・パルプ業による乱伐も化学工業原料確保の手段として継続して行われた。さらに、住宅資材の需要も加わって、人間による利潤のための森林の破壊は決定づけられた。実利的な森林の経営を目指して、多くの自然林は伐採され、人工造林などへの転換によって森林はまさに人工的採取資源となり、人間支配の森林文化が定位された。

 アジアにも砂漠化は進行し、洋の東西を問わず、自然の破壊は深刻となった。今日までに先進国をはじめとして、それに対応して伐採・成長・植栽の平衡を守り、緑の回復を図るための計画が進められたとはいえ、エコロジストの指摘どおり、時代はまさに重大な岐路にたどりついている。バリー・コモナーの「自然が一番知っている」という言葉がきわめて印象的だ。いかに上等な管理をしても、エコシステムを機械同様に操作することは不可能である。エコシステム自体の自動均衡的な力を強めること、これが最も合理的・自然的な地球の生かし方ではないか。この神の摂理を忘れていたところに人間の大きな誤りが始まった。

 バイオエシックス(生物学と人間の価値の総合を目指す科学)の倫理は、新たなネイチャーインタフェイスの哲理なのである。

参考文献

福岡克也『エコロジー経済学』有斐閣、1998年

コリングウッド『自然の観念』平林康之・大沼忠弘訳、みすず書房、

鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』日本放送出版協会、1978年

ヨセフ・ケスgラー『資本主義と林業』黒田迪夫訳、日本林業調査会。

ドミニック・シモネ『エコロジー』辻 由美訳、白水社、1980年

瀬在良男『二一世紀の文明を探る』教育出版センター、1980年

NATUREINTERFACE.COM
ネイチャーインタフェイス株式会社 info@natureinterface.co.jp TEL:03-5222-3583
-- 当サイトの参照は無料ですが内容はフリーテキストではありません。無断コピー無断転載は違法行為となりますのでご注意ください
-- 無断コピー無断転載するのではなく当サイトをご参照いただくことは歓迎です。リンクなどで当サイトをご紹介いただけると幸いです
HTML by i16 2018/10/17