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リーダーズ・エッセイ -- 大峯 郁衣

p108

自然と自由の調和をもとめて

大峯郁衣

 ひと頃、大手電機メーカーのTVコマーシャルで、hヒューマンインターフェースiなるキャッチコピーが流れていた。共働きの家庭を想定していたのか、一週間分の食品がたっぷり収納できる超大型冷蔵庫や、夜中に回しても平気という消音装置付の洗濯機などが映し出されていた。気がついてみれば、あのコマーシャルはいつのまにか見られなくなったが、なぜだろう。

 今回、ネイチャーインタフェイスというネーミングを耳にして、ヒューマンインタフェイス(ここで科学技術界の表示にそろえる)とどう違うのか、特に、インタフェイスの用語になじみが薄いために、これら二つの概念を充分に理解できていないことに気がついて、あらためて考えてみたいと思った。

 ヒューマンインタフェイス(human interface)も、ネイチャーインタフェイス(nature interface)も、interfaceを「調和」あるいは「境界」という名詞形で扱っている。だから、前者は、人間との調和(境界)、後者は、自然との調和(境界)を意味していることになる。

 だが、まだよくわからないのだ。つまり、人間と何の調和なのか、あるいは自然と何の調和なのか、そして、それらがどういう関係にあるのかがよくわからないのである。

 そこで、自己流ながら、interface

を名詞形としてではなく動詞形にして考えてみることにした。例えば、「A interface with B」すなわち、「AはBと調和する」のごとくにである。

 そして、AとBそれぞれに、human, nature を挿入してみる。すると、Aに位置する語は主語、主格であるから、「human interface with nature」はあくまでも人間が中心になって、言い換えれば、人間の都合に合わせて自然(環境)を調和させるということになる。なるほど、そういうわけで、上述の“ヒューマンインターフェース”すなわち、「人間にやさしく」のコマーシャルは、今日さかんに叫ばれている「地球(自然、環境)にやさしく」のキャッチコピーとは相容れないので却下されたのかと合点しているのだが…。

 さて、本論に入りたい。ネイチャーインタフェイスとは、ネイチャーが主語、主格であるが、では、「自然」は何との調和を求めているのだろうか。一七世紀の西洋のルネッサンス以来、自然科学の世界では、常に、「自然」と「人間」は相対立するものとしてとらえられてきた。そして、このことは、デカルトを代表とする当時の哲学思想とも全く歩調を同じくしてきたのである。

 だが、それ以前を二三世紀くらい遡ったギリシャの地を発祥とする人間の精神の歴史を見てみると、そこでは、「人間」も「自然」も区別されていない未分化の状態であり生きとし生けるものであったのだ。やがて、「人間」は「自然」とは違う対立した存在との自覚に至るが、それでも、神話的な神のもとで混合的に共存共栄の世界を九○○年も維持したのである。自然科学が発達していなかったから当然だとの見方もあろうが、半面、当時の人間の大いなる自然界への畏敬の念があるような気がするのである。

 ネイチャーインタフェイスの世界が、「自然」の中に「人間」をも取り込もうとする点は、古代の世界に還ろうとする「人間」の本能的な帰依の要求なのかもしれない。ここでは、もはや、今日まで三○○年余り続いてきた西洋の近代自然科学におけるような「人間」と「自然」の対立は有り得ない。今や、「人間」を含んだ「自然」と対峙するもの、それは従来のいかなる歴史においても別個には取り扱われたことのなかった「人工物」なのである。「人工物」は、時には、人間を凌駕する優れものであったり、他方、自然や環境を破壊する脅威にもなりかねないものとしてとらえられている。

 さて、いま一度、このような新しいネイチャーインタフェイスの世界において、私たちは自覚しなければならない。すなわち、「人間」を含めた一切のいのちある「自然」、生から死へと向かう必然的な時間の流れの中に存している「自然」と、自発的で「自由」な意思を持つ「人間」が生ましめてきた「人工物」との対立という構図のネイチャーインタフェイスの世界において、私たち「人間」は、これら二つの世界について責任を負っているということである。「自然」の中で他の「自然」とうまく調和していく「人間」になること、もうひとつは、諸々の「人工物」を現代の「人間」の利便に用いるとしても、後世に禍根として残さぬように責任を持つということである。

 自発的な自主的な「自由」というと、日頃、私たちは、勝手気ままにふるまうこと、必然的な流れに逆らうことなどと悪い意味に解釈することが多いが、それは、「自由」のもつ片面である。もう一面の「自由」とは、他の人から命令や指摘を受ける前に、善なる判断や行動を自ら自主的に自発的に自分自身に課すという規範を意味する。「自由」とは、だから、善悪の両極を持つベクトルを行ったり来たりする質のものなのである。

 ネイチャーインタフェイスという科学技術の世界において、人間を含む一切の生物たる「自然」と、人間の奔放な「自由」が生み出した「人工物」という相対立した構図も、人間の規範を伴った「自由」を基盤として初めて調和への可能性が生まれてくるのではないだろうか。今日の科学技術の世界において、人間の精神の謙虚さが強く問われているように思う。

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