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[特集] 匿す顔、名無しの顔 -- 原島 博




















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匿す顔、名無しの顔

メディアは果たして進化しているのか?――顔学から考える

原島博

顔にかんする言葉は山ほどあるけれど、「顔学」というのは最も遅れてきた言葉にちがいない。

ところで顔というインタフェイスはどんなあらわれをし、われわれになにを伝えているのか。

顔を情報科学することで、科学の最新の局面が見えてきた。

画像提供=東京大学工学部原島研究室/写真協力=RMN

通信工学からヒューマンコミュニケーション工学へ

私の専門は、もともとは通信工学でした。通信というと、一般のイメージは、電話機のような端末があって、電話機と電話機の間をどのように線で結ぶか、どうやって信号を伝えるかということでしょう、でも、英語では通信はCommunicationです。コミュニケーションという観点からは、本当の端末は電話機ではなく、むしろ人間なのではないか。人間と人間との間のコミュニケーションをどうサポートするか、それが重要なのではないか。そう思い始めました。一九八〇年代中頃のことです。

 いま私たちの社会には、いろいろな意味でのコミュニケーションギャップがあります。たまたま相手が遠くにいると、距離というギャップがあります。それを埋めるために通信、つまりテレコミュニケーション技術が発達してきたのです。でもコミュニケーションギャップはそれだけではありません。場合によっては、すぐ目の前に相手がいたとしても、たとえば言葉が違うとか、あるいは目が見えない、耳が聞こえないというハンディキャップによるギャップがあるかもしれません。さらには文化の違い、親と子という形などといったコミュニケーションギャップもあるわけです。

 このような立場から、従来の通信工学をもう一度見直してみよう。名称も変えた方がよいかもしれないとのことで、学会に「ヒューマンコミュニケーション研究会」をつくりました。私自身の研究テーマも「ヒューマンコミュニケーションメディア」をキーワードにするようになりました。

顔は感性コミュニケーションメディア

「顔」の研究は、そのような流れのなかで生まれました。考えてみれば、顔は人のコミュニケーションにおいて、非常に重要な役割を担っています。顔は単に情報のみを伝えるメディアではありません。むしろ感性的なコミュニケーションメディアというべきかもしれません。このことは、これからのコミュニケーション技術を考える上で、大いに参考になります。

 これまでの通信は、論理的な情報を伝えればいいということで設計されてきました。でも実際の使われ方は、感性的なコミュニケーションの方が多いのではないでしょうか。例えば、恋人同士が一時間も話をする。情報を伝えるという意味では、明日何時にどこどこで会おうで終わってしまっているはずなのに、なぜそのあと一時間も二時間も話をするのでしょうか。それは、もうほとんど感性のレベルでのコミュニケーションになっています。とすれば、むしろこれからのコミュニケーション技術は、感性を中心に考えるべきではないか。そういうふうに考えて研究を始めました。

 具体的には、ちょうど一九八五年ごろ、テレビ電話の研究をしていて、テレビ電話の中で気持ちよく相手とコミュニケーションする仕組みを用意できないかと考えたのです。

 テレビ電話では、互いに顔を見せます。ところが、普通は自分の顔を見せることにはかなり抵抗があります。とくに朝早くテレビ電話がかかってきた、まだ化粧をしてない、出たくない。今までの通信はありのままを送る、忠実に送るということを目的としていましたから、寝ぼけ顔も忠実に送らなければなりませんでした。

 でも、気持ちよいコミュニケーションをサポートする立場からは、必ずしも忠実でなくてもよいかもしれません。むしろ、印象をよくして話したほうが気持ちよく話せるんじゃないか。そういうことで、新しいテレビ電話の研究を始めました。

 基本的な技術は、一枚の顔写真をまず相手に送り、こちらがにこっと笑ったらその顔写真もにこっと笑うように表情づけすることです。そうすれば、自分が一番気に入った顔写真で話ができるし、場合によっては一〇年前の顔で話をすることもできるかもしれません。

 これは詐欺ではないかという話もありますが、それを言ったら、メイクだって詐欺ですよね。でも、普通は私たちは人(特に女性)に会ったときに「おまえ、メイクしていてけしからん。素顔でおれと話すべきだ」とは言いません。気持ちよくコミュニケーションをするにはそれなりに身繕いをするということが大切だとの社会的なコンセンサスがあるわけだから、それをテレビ電話の中でやってもいいのではないか。自分が気持ちよくコミュニケーションできる顔に変えてもいいのではないかという訳です。

「顔学」から「ダ・ヴィンチ科学」へ

そう考えて、顔の表情や印象についての研究を始めたら、だんだん顔そのものがおもしろくなってきました。必ずしもテレビ電話という工学的なアプリケーションだけを目的とするのではなく、「顔学」なる新しい学問ができたら、その方がもっとおもしろいではないか。もちろん、工学部にいる人間としては何かを実用化するということは重要ではあるけれども、それ以上に、大学にいる人間として自分の力で一つの学問領域が出来れば、これは本望ではないかと考えたのです。もしかして『顔学大系全十巻』なるものが将来、たとえば岩波書店から出るとかね。(笑)

 こうして「顔」とつき合うようになったら、実際につき合う人の範囲も変わってきました。これは私の学者人生の中で、思わぬ収穫でした。今までは工学部という範囲で、あるいは通信技術という範囲でのつき合いだったのが、心理学者、人類学者、あるいはメイクをしている人、警察の人、似顔絵を描いている人、伝統芸能で仮面を集めている人……、実にいろいろな人とつき合うようになってきたのです。これは私の視野を格段に広げてくれました。

さらには、顔学の研究は、これからの科学技術のありかたを考えさせるきっかけにもなりました。

 たとえば顔学は、目の前の等身大の「顔」を研究対象にします。今までの科学技術は超マクロであったり、超ミクロであったりして、目の前のものが意外と置き去りにされていたのではないでしょうか。これからは、むしろ目の前の等身大のものをきちんと研究しなければいけないと思います。

さらに言えば、これまでの科学技術は、論理的な方法論、いわば理性に基づく方法論がまずあって、それでできる範囲だけをやってきたのです。言い換えると、ほかのものは論文にならないというので捨ててきた。たとえば感性は科学の対象にはなりませんでした。

 ところが顔は、感性を抜きにしては意味がないのです。顔を、要素に分解し、数値化して分析するという従来の方法論に持ち込んでも、それは本当の顔ではない。感性という側面を無視しては決して顔は扱えない。いわば顔学は、これまでの科学がもっとも不得手としてきた感性を研究する、格好の実験の場なのです。

また、顔学は、典型的な学際科学です。先にも述べたように、顔は様々な分野の研究者が関心を持っています。心理学者、人類学者、解剖学者、……。歯医者さんもいます。哲学者は「なぜ、人は顔を気にするのか」を論じています。顔学は、そのような様々な分野の研究者の共同作業によってはじめて可能になります。これからの科学技術は、狭い専門に閉じ籠もっていては、何もできません。顔学のような学際科学が要請されます。私は、それを「ダ・ヴィンチ科学」と呼んでいます。

社会に開かれた科学へ

もう一つ重要なことは社会との関係です。顔にはもともと誰もが関心があります。ただ下手をすると、顔の研究は社会的差別に結びつく危険性があります。たとえば安易に犯罪者の顔について研究して、「犯罪者の平均の顔」なるものを公表したら、その顔に似た人は交番の前を歩けなくなってしまうかもしれない。何か事件が起きたときに、冤罪に結びついてしまうかもしれない。

 顔学には、常にそういう危険性があるのです。決して、顔学は閉鎖的な学問になってはいけない。顔を扱う学会も、常に社会に対して開かれていなくてはいけません。社会から、いい意味で言えば注目される、悪い意味で言えば監視される対象でなければいけないのです。

覚えていらっしゃるでしょうか。一九九九年夏に上野の国立科学博物館で「大顔展」という催しがありました。これは「日本顔学会」という学会が企画を担当しました。

日本顔学会は、一九九五年三月に発足した比較的新しい学会です。私もその設立のお手伝いをしました。この顔学会自体は会員が八百数十名の小さい学会です。それが、三十万人相手の研究発表会をやった。それが大顔展でした。

 顔学というと、すぐ人相学と間違えられてしまいます。決してそうではない。きちんと科学的に「顔」を扱っていくのだ、それだけ深みがあり大切な分野なのだということを、大顔展を通じて示そうとしたのです。

 そのような社会と共に歩もうとする科学の姿勢は、これからの科学技術が目指すべき方向であると信じています。

縁の下の役割

さて、もう一度私の専門に戻りますが、前にも述べたように私のバックグラウンドは、通信であり、さらにはコンピュータを用いた画像処理です。従って、顔に関心を持っても、心理学的な顔研究をするつもりはありません。もちろん人類学をやっても仕方がありません。やはり、工学の立場から「顔学」に貢献できたらと思っています。

 私の研究室では、コンピュータを使って、モナリザの表情を変えたり、複数の人の平均顔をつくったりしています。たとえば表情合成は、最初はテレビ電話という目的がありました。でも、そのうちに、むしろコンピュータを使って顔を分析したり、処理したり、合成したりすることは、他の分野の人たち、心理学とか、人類学とか、いろいろな分野の人たちが顔を研究するときのいわば研究ツールにもなるのではないか、方法論にもなるのではないかということに気づきました。実際、それぞれの分野から、それが要請されました。研究のツールを開発して提供するということは、ある意味では縁の下の力持ち(力があるかどうかはしらないけれども)的な役割で、それもまた工学部の仕事としていいのではないかと、いまではそう思っています。工学部というのは、他の人に役に立つようなことをするところですから。(笑)

匿顔化するコミュニケーション社会

一方で、私はマルチメディアやバーチャルリアリティなどのメディア技術を専門にしています。その観点から、メディアを通じたコミュニケーションの形が、これからどう変わっていくかに興味を持っています。

 その中でも特に関心があるのは、もしかしたらメディアは顔を隠しつつある、コミュニケーションにおいて顔がどんどん隠れているのではないかということです。

 電話は顔は見えない、声しか聞こえない、でも何となく声の調子から相手の表情に見当がつきます。それが、電子メールになってくると、もう文字だけになってしまっています。相手の顔は全く見えません。

 このようにメディアの中では、顔を見せないコミュニケーションが当たり前になってきています。一方で、私たちはずっと、相手とコミュニケーションするときには顔を見せていました。当たり前のように。一番相手の見やすい所に、まさに目の前に顔をおいて、衣服でほかの部分は隠しても顔だけは裸の部分を見せていました。それがある意味で安心感、信頼関係の元になっていたのです。社会的秩序の元だったと言っても言い過ぎではないでしょう。顔を見せているからあまり悪いことはできない、悪いことをするときにはストッキングで顔を隠します。

 ところが、ネットワークの中では顔を見せないのが当たり前になってきました。すると、顔を見せることによって成り立っていた信頼関係は、一体どうなるのか。あるいは、ネットワークの中での社会的秩序なるものは果たして大丈夫なのか、という問題がでてきます。

 もしかしたら、顔を隠すことによってコミュニケーションの仕方が変わるだけではなくて、そこでコミュニケーションしている人の人格そのものまでもが変わってしまうかもしれません。ジキルがハイドになってしまうかもしれない。そういう社会を、私は「匿顔の社会」と呼んでいます。匿名をもじった造語です。

 匿顔の時代になったときに、いままでは当たり前であった顔が、コミュニケーションにおいて当たり前ではなくなりました。そうすると、あらためてコミュニケーションにおける顔の意味は何なのかを問い直さなくてはいけなくなります。当たり前でなくなったときに、ではそれはどういう意味を持っているのか、これからのコミュニケーションシステムの設計において顔をどのように位置づけるべきなのかを、真剣に考えなければいけなくなったのです。

面人類、線人類、そして……

面人類、線人類という言い方があります。面というのは顔面の面です。フェイス・トゥー・フェイス・コミュニケーション、それを大切にするのが「面人類」。それが、いまだんだん線人類化している。線というのは電話線の線。むしろ、面と向かって話すよりも、電話のほうが話しやすいという人たちが増えています。それが「線人類」です。

 数学的に言うと、面は二次元、線は一次元です。そうすると、その次にはゼロ次元が来るかもしれない。ゼロ次元は点ですよね。「点人類」です。線人類の段階では、まだ電話線の線の先に相手がいた。点人類ではそれもいなくなる。場合によっては、コンピュータとだけコミュニケーションをする。自分の理想の顔をコンピュータで合成して(そういう技術を開発している人がいるらしい(笑))、それとだけ毎日コミュニケーションをしている。本当の女性は自分の言うことを全然聞いてくれないけれども、コンピュータの女性だったら自分にいつもにこにこしてくれる、自分の言いなりになってくれる、それが点人類です。

 もしかしたら、またこれも言葉の遊びだけれども、点がゼロ次元、線が一次元、面が二次元だとすると、三次元がその前にあったかもしれない。体です。面人類に対して「体人類」。体人類は、体でコミュニケーションする。スキンシップコミュニケーションです。動物は、スキンシップコミュニケーションが中心だった。それが、離れていても顔を見ることによってコミュニケーションができるようになった。体人類から線人類への移行です。

 そのために言葉が生まれた。言葉というメディアを手に入れたから、離れていてもコミュニケーションできるようになった。顔の表情も豊かになって、それを通じたコミュニケーションもできるようになった。つまり、顔というコミュニケーションメディア、言葉というコミュニケーションメディアが発達することによって、人類は体人類から面人類へ進化したわけです。

 そして、いま私たちは電子メディアというコミュニケーションメディアを手に入れました。その結果、面人類は線人類になり、さらには点人類化しようとしています。それは本当に進化なのでしょうか。

 実は、私がこういうことを考えたのは、かなり前になりますが、宮崎勤被告(まだ裁判が続いていますから被告とよんでおきます)の事件が起きたときでした。これはいったい何なんだろうと、考え込んでしまいました。単なる変質者の事件なのか、あるいは何か違うのか。この事件のとき、宮崎被告の個室がテレビで公開されました。そこにはビデオカセットがずらーっと並んでいました。そこで毎日毎日、そのビデオカセットを相手に暮らしていた。そして友達はほとんどいない……。

 真実はわかりませんが、私には、宮崎被告がビデオという最先端メディアがつくり出した点人類のように見えたのです。あの本棚にもし岩波文庫が並んでいたら、誰もそれほどショックを受けなかったでしょう。もしかしたら最先端メディアがあのような点人類をつくり出したのかもしれない。あの事件は時代を先取りしてるのかもしれない。というのが、あの事件の私にとっての怖さでした。

 その点人類が、体人類的な事件を起こしました。結局、点人類というのは生の、本当の女性は全然相手にしてくれないけれども、コンピュータの中の女性だったら自分の思うままになる。それを現実社会に持っていったときに、子供だったら自分の思うままになる。そして自分の思うままになる相手(幼女)を探し出して、悲劇が起きた……。    

          

 結局、点人類化は体人類化を意味し、元へ戻ってしまったのではないか。メディアはコミュニケーションを進化させようという形で進んできたのに、もしかしたら逆に向かっているのではないか、メディアによってむしろコミュニケーションを阻害してるのではないか。

 これがいま、私にとっての重要な、そして重い課題です。

匿顔は勇気の素でもある

少し暗くなりすぎたので、話を変えましょう。

 顔を見せない「匿顔」は、決してマイナス面ばかりではありません。プラスの側面を伸ばす努力も必要です。私たちは、ネットワークの中に、いままでとは全く違ったコミュニケーションのチャネルを、新たに手に入れたのです。せっかく別のコミュニケーションチャネルを手に入れたのだから、それを現実のチャネルと同じにしてしまったらつまらない。新たなチャネルは、新しい考え方で設計すべきではないか、との発想も必要です。

 実際、顔を見せないほうがスムーズにコミュニケーションできるということもあります。こういう例があります。親と子がコミュニケーションするときに、面と向かうと、片や「勉強しろよ」と言い、片や反発してしまって何も話せない。ところが、メールで親と子がコミュニケーションをすると、「今日、面と向かったときにはつい、また、勉強しろよと言ってしまって、そのままになってしまったけれども、実はあのときこういうことを言いたかったんだよ」と、本当に言いたいことが言えることもあります。顔を見せてしまうと言えないのに、メールならば言えるということもあるのです。(笑)

 あるいは、こういう側面もあるかもしれない。顔を見せるということは、自分をすべて見せるわけですから、いろいろな社会的な制約の中に自分をおくことになります。その制約を取っ払うことによって、いい方向に動くこともあるかもしれません。たとえば、顔を隠すことによって勇気が出るとか。昔のスーパーヒーローはみんな顔を隠していました。鞍馬天狗も、月光仮面もそうでした。(笑)

 匿顔という新造語のもととなった「匿名」も、似たようなところがありました。村社会で生きているときには、周りの人が自分のことをすべて知っているわけです。何歳までおねしょをしていたかまで知っている。すると、そこで何か新しいことをしようとしても、周りから「一〇歳までおねしょをしていた子が何を・・・」みたいな形で評価されない。(笑)

 ところが、都会はそうではないわけです。一〇歳までおねしょをしていても誰も知らないから、安心して正論を吐けるわけです。匿名性のよいところです。都会では、匿名によって、名前のしがらみから逃れることができ、新しいエネルギーを手に入れ、自由な環境がそこに生まれました。それが都市のエネルギーだったと思います。そして、その都市に住んでいる人たちが、市民革命を起こして、新しい時代を築いていきました。村民革命ではない、あくまで市民革命だったのです。

 このように匿名性には、評価すべきところがあります。ネットワークの中では、さらにそれが進んで匿顔になりました。ネットワークの中の匿顔の人たちは、一般には悪いイメージで見られることが多いようです。いたずら電話とか、無言電話とか。現実の社会では紳士なのに、ネットワークの中でやたらに攻撃的になる人もいます。

 でも、匿名の都市ができたときも、都市は村からは悪いイメージで見られていたのです。都市なんて、汚くて犯罪が多発して、道徳観のない人たちばかりが住んでるというイメージです。しかし、その人たちが新しい時代をつくっていったのです。それと同じようなことが、もしかしたらネットワークで起こるのかもしれません。

 もちろん、最初に起こることは問題が多い、それは事実です。でも、それを一つ一つ解決することによって新しいものを生み出していくという努力が、これから必要とされます。

名前のある顔と、ない顔

顔は、大きさでいえば、長さでいっても体の七分の一、八分の一ぐらい。小さいにもかかわらず実際にはそれ以上の意味を持っています。もしかしたら、顔イコール人格、人間という言い方もできるかもしれません。「顔に泥を塗られる」ということは、別に顔という小さい部分が汚されることではなくて、その人の人格そのものを傷つけられるということなのです。

一方で、人格のない顔もあります。コンピュータで合成した顔です。私の専門分野で、コンピュータとのインタフェイスに顔を使おうという研究があります。コンピュータで合成した顔に向かって話をすることができれば、別にキーボードを打てなくても、コンピュータの操作が全然できなくても、テレビ電話をかけるような感覚でコンピュータとコミュニケーションができます。

 音声合成で「お答えいたします」と答えるだけでなく、顔も合成してにこにこさせる。コンピュータが一生懸命計算しているときには難しい顔をさせておいて、答えが出たらにこっとさせる。そのときにコンピュータが何をやっているかを顔で表現する、そういうこともできるかもしれません。

 でも実際にやってみると、コンピュータでリアルな顔を合成することは、なかなか難しいものです。リアルにすればするほど不自然になってしまう。最初のうちは結構評判がいいんです。よくここまで自然になったと。ところがもっと自然にしていくと、逆に不自然さが目につくようになります。

 どこかおかしい。それは当たり前です。普段から本物の顔を見ているんですから。リアルに近づけば近づくほど、本物との違いが気になりだすのです。それともうひとつ、だんだん死体の顔に近づいていくというのがあります。形だけ似せれば似せるほど死体の顔に近づいてしまう。それは不気味ですよ。

 すると、こういう意見がでてきます。コンピュータとのインタフェイスでは、顔は本物と似せるよりも、むしろ徹底的に漫画にしてしまったほうがいいのではないかと。極端な話、大きい目だけ描いておけば、それだけでも顔に見えます。その中の小さい黒い点(瞳)が動いているだけで表情をもたせることもできます。

さらには、コンピュータインタフェイスに「顔」はどこまで必要なのかという議論も活発になりました。

 個人的には、私はこう思っています。基本的には、コンピュータと情報をやりとりするだけだったら顔は必要ありません。あるいは極端にデフォルメしてもいい。要するに、顔というのはその人の人格と結びついてるわけですから、知らない人の顔が出たっておもしろくありません。(笑)

 コンピュータで合成した顔は、それが知らない人の顔の場合は、どんなにリアルであっても意味がないのです。それは漫画でいい。ところが、知っている人の顔の場合は、人格と顔が結びつきますから、そのときは本当にその人の顔であることが重要になります。もちろん似顔絵でもいいけれど、やはりその人であるということが大切です。たとえば夏休みの宿題で、学校の先生が自分で宿題ソフトをつくって、ときどきそこに自分の顔を出す。(笑)それは、その先生でなければ意味がない。

顔は、結局相手との関係が大切

私は、顔というのは基本的に人と人との関係で決まるものだと思っています。そういう関係があるときにはじめて顔が意味を持ってくる。逆に人格と結びついていない無名の顔は、関係性がどこにもないから、どんどんデフォルメしてもいいし、アニメ的につくってもいい、むしろそうすべきかもしれません。

 顔は、相手との関係性、具体的な名前のついた段階で意味が変わってきます。顔が問題なのではなく、顔を通じての相手との関係が重要なんだと思いますね。たとえば顔写真一つとっても、それは大切にしなければいけない。勝手にコンピュータで処理をしてしまうと、その人の顔を傷つけるというよりも人格を傷つけることになってしまいます。もちろん、肖像権の問題もあります。

 ちょっと余談になりますが、学会発表するときは、「平均顔」だと非常に楽なんです。平均顔には肖像権がない。無名の顔だからこそです。顔学で議論をするときも顔が名前と結びついてしまうと客観性がなくなってきます。特に自然科学的に顔を研究するときの一つの重要な点は、顔から人格つまり名前を消すことなのです。

 平均顔にすることによって名前が消えます。その意味で便利です。しかし、名前を消すことによって失われる部分があるわけですから、その失われる部分はいったい何なのか、ということもしっかり議論しなければいけない。「顔」を研究対象とするときは、名前がついている、ついてないということは、非常に重要なことなのです。

再び顔を見せるコミュニケーションへ

以上、ここでは「顔」をテーマにして、私自身が日頃考えていることを話してきました。最後に、これからへ向けた私自身の期待を述べておきましょう。

 それは匿顔のコミュニケーションが当たり前になってきたときに、逆に、リアルワールド、つまり現実の社会での「顔を見せながらのコミュニケーション」の大切さというものがクローズアップされてくるのではないかということです。匿顔のコミュニケーションは気軽だけれども、大切な人との間の本当のコミュニケーションは、やはり顔を見せることが大切だ、そういう認識が生まれてくることです。

 例がいいかどうか分かりませんが、ある時期、食器としてプラスチックが出てきたときに、軽くて割れない、これからの食器はすべてこれだと言われたことがありました。でも、結果はどうなったでしょうか。確かにコンビニ弁当をはプラスチック容器で食べるけれども、大切な食事をするときには本物の食器を使っています。

 そのような使いわけが、ネットワークの時代に起きてくるのではないかと思っています。仕事は匿顔で効率的にやっていいかもしれないけれども、本当に人と人との関係を大切にするときは、きちんと顔を見せてコミュニケーションをする。そういう時代が来るのではないかと、期待しています。

私自身は、コンピュータで顔を合成したりマルチメディアの研究をしていて、日本バーチャルリアリティ学会の会長もしていますから、どちらかと言えばバーチャルな世界の人間のように見えるかもしれません。でも、実際は私は完全にリアルワールドの人間なのです。バーチャルなコミュニケーションよりも、リアルワールドで実際に会ってコミュニケーションした方がずっと楽しい。だからこそ、「顔」にこれほどこだわっているのでしょうね。

原島博[はらしま・ひろし]

1945年東京生まれ。東京大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。

東京大学工学部附属総合試験所助教授、同電子工学科教授を経て、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授。電子通信系工学、メディア工学専攻。

スタンフォード大学客員教授、郵政省の放送と視聴覚機能に関する検討会座長も務める。また日本顔学会理事。

主な著書・共著に『情報と符号の理論』『仮想現実への序曲』『人の顔を変えたのは何か――原人から現代人、未来人までの顔を科学する』などがある。

左から

韓国|山台劇より「老丈(老僧)」

インドネシア(ジャワ)|舞踊劇トンぺより「ラーマーヤナのハヌマン」

インド|舞踊劇チョウ(セライケラ)より「シバの妃ドゥルガー」

いずれも国立民族学博物館蔵

変化する高校生の平均顔 左から

50年前、最近、50年後、100年後の高校生

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