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文学と科学のインタフェイス -- 風間 賢二



文学と科学の

インタフェイス

第1回 

オートマトンが怖い(1)

風間賢二

 一九五九年にC・P・スノーは、『ふたつの文化と科学革命』という有名な講演を行って物議をかもしだしている。その講演でスノーは、「文科系の人間で熱力学の第二法則がどんなものであるかを言えるものがどれだけいるだろうか、それは理科系の人間にとってはシェイクスピアの有名な一節のようなものなのに」と述べたのだ。つまり、いまや文系と理系がふたつの極に派閥化しており、そのうち、互いの言ってることがわからなくなってしまうぞと警告したのである。

 もちろん、そうしたスノーの言葉は、一九六〇年代から七〇年代にかけて登場したアメリカのポストモダン作家たち――トマス・ピンチョンやジョン・バース、ロバート・クーヴァー、ジョゼフ・マッケルロイ、ドン・デリーロなどの作品を一読すれば、年寄りの危惧にすぎなかったことは周知の事実。実際、そのあたりの事情は、デイヴィッド・ポラッシュの『サイバネティク・フィクション』(1985 ペヨトル工房) をはじめとして、キャサリン・ヘイルズの『Chaos Bound 』(1990)、スーザン・ストレルの『Fiction in the Quantum Universe 』(1992)、あるいはジョゼフ・タビーの『Postmodern Sublime』(1995)といった、サイバネティクスからカオス理論、量子物理学、最新テクノロジーの観点から現代文学の想像力と科学との「交通」に関する優れた研究書が詳説してくれている。

 とはいえ、実は、そうした文系と理系の知の領域を自在に横断する作家、そしてふたつの異なる文化を日常的な教養として理解できる読者は、けっして多くない。しかし、十七世紀の科学革命と十八世紀の産業革命を経て、新発見と発明が隆盛をきわめた十九世紀の西欧、ことに英米では、科学と文学が知の双子のように一心同体で歩み、作家にとっても一般読者にとっても、ふたつの文化は密接な相補関係にあるものとして受け止められていたのだ。

 今日の一般大衆にとっては(ピンチョンやバースの骨太のポストモダン小説を楽しんで読んでいるのは、少数派にすぎない)、このいわば、水と油の理系と文系が蜜月期を過ごしていた十九世紀の科学と文学について、この連載で語っていくことにしよう。

 さて、十九世紀の政治や経済や文化構造、そして人々の心理に多大な影響を与えたものといえば、機械である。機械が田舎を都市に、農民や奴隷を工場の賃金労働者に、空間を時間に、時間を分刻みに、原始的なユートピアを産業化されたテクノトピアに変えた。機械による急速な環境の変化のなかで、芸術家たちにとって、社会の夢と悪夢の双方のメタファーとなったのが自動機械(オートマトン)である。機械は労力を節減してくれたものの、人間を機械的反復運動と没個性的な効率システムの世界に招来することなった。それと気づかぬうちにアイデンティティと情感あふれる生活を機械に乗っ取られる可能性が人々に生じはじめたのだ。当然、芸術家や一部のインテリ、あるいは感受性の強い人々によって機械に対する反発が生まれた。とりわけ有名なのが機械破壊主義者(ラッダイト)である。

 ラッダイトの最盛期は一八一一年から一八一六年の英国においてである。ラッダイトは覆面をした正体不明の一団で、主として紡績工場の機械を破壊してまわった。かれらが崇拝するのは「キング・ラッド」ことネッド・ラッドという男だった。

 一七七九年のこと、レスターシャーのある村で、ネッド・ラッドという男が、ある家に押し入り、怒りのあまり正気を失ったようすで、二台の靴下編み機を破壊したという。このラッドという狂気の発作に話の尾ひれがつき、しだいに彼の行動自体が英雄伝説化されて、その名にちなんで、機械を見ると破壊の衝動にとらわれる人々のことをラッダイトと呼ぶようになったらしい。ちなみに、現代版ラッダイト小説とでも称すべき長編に、ネイチャーライティングの大御所エドワード・アビーの『爆破』(1975 築地書館)がある。このコミカルなピカレスク小説は、環境革命を推進する自然保護活動家たちのバイブルともなっている。

 こうした非合法で過激な機械反対派とは別に、知識人たちも人間の機械化を嘆いている。たとえば、トマス・カーライルは、一八二九年に執筆された「時の徴」というエッセイで、当時を「機械化の時代」と呼び、人々は頭も心も、そして手も機械化されつつあり、いまや、何事も直接に、あるいは自分の手を使ってなされることがなく、すべては、公式と計算によって作動する装置によってなされる、と語っている。

 こうした機械化された人間を漫画家ロバート・セイモアがユーモアたっぷりに活写した作品が『ロコモーション』(1829) だが、そこに描かれている蒸気動力人間にインスピレーションを受けた人物がいた。アメリカの発明家ザドック・P・デデリックである。彼は一八六八年に、三馬力の蒸気機関を搭載して四輪車を時速三〇マイルで引っぱって走る七フィート九インチの蒸気動力人間の特許を申請している。

 実は、セイモアの描いた蒸気人間からアイデアを得た人物はもうひとりいる。やはりアメリカ人で、当時のダイム・ノベル(十セントの安価な読み捨て娯楽雑誌)の一人者で、発明物語(インベンション・ストーリイ)と銘うった科学大冒険物語の創始者エドワード・S・エリスである。彼の「The Steam Man of the Prairies 」(1865)は、蒸気機関の自動人形(オートマトン)が西部開拓を背景に大活躍する話で、非常に好評を博した。おかげで亜流を生み出すことになった。それがフランク・リードという名の発明家・冒険家を主人公にしたシリーズで、これがまた大当たり。このシリーズを一番目の書き手ハリイ・エントンから引き継いだ(人気が下火となり、大幅なテコ入れ策として)ルイス・P・セナレンズは、この〈フランク・リード〉もので、十九世紀末にはアメリカのジュール・ヴェルヌとまで呼ばれるほどの人気作家となった。

 もちろん、ダイム・ノベルで青少年に夢を与えた蒸気動力人間の系譜をさかのぼれば、同じ十九世紀に、あまりにも有名なメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818 創元推理文庫)がある。このゴシック・ロマンスの古典的名作にしてSFの母とも称される長編は、いまや、文学批評産業の目玉商品のひとつであり、文学者たちによってさまざまな解釈が行われているが、ここでは、機械と人間の関係について、その夢(完全なる自動機械)と悪夢(自動機械の暴走)といったメタファーを後世に残した作品として、まずは一読を薦めておく。

 ところで、フランケンシュタイン博士が人造人間を作ろうとした動機は三つあると考えられる。創造主への憧れ、自動機械の有用性、そして異性を必要としない生殖である。とりわけ、三つめの動機に関しては、錬金術師パラケルススのホムンクルスからユダヤのゴーレム伝説、そして『フランケンシュタイン』を経て、今日のクローン人間を題材にした様々な作品にまで無意識的な暗流と化しているようだ。

 次回は、さらに自動人形(オートマトン)の系譜を詳しくたどり、ハーマン・メルヴィルの短編「鐘塔」(1855)について触れる予定。

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