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植物の純粋持続 -- 三輪 敬之



special feature

感性のコミュニケーション

機械工学と植物がむすびつく、

まるで異質のもの、

近接しえないものが本来的に

隣り同士であったかのようにまったく

新しいフィールドをつくりだす、

わたしたちはそこから新たな概念の出発をみる。

special feature...02

植物の純粋持続

彼らはどうやってコミュニケーション

しているんだろう?

MIWA Yoshiyuki

三輪敬之

A|植物を研究することになった

きっかけはなんだったんでしょう?

三輪|機械の材料についてもともと研究していたのですが、二〇年以上前に形状記憶合金に触れる機会があり、これを使って、メカなしで材料と電子回路だけで動く昆虫型のマイクロロボットを、恩師の井口信洋教授らのもとで世界に先駆けてつくったのです。その動きがあまりに生き物らしいので、生物のような柔らかい機械ができないかと思うようになりました。また、その頃、東大の清水博教授らのグループがバイオホロニクスという概念を提唱されていて、個々の自律的な要素の働きを統合するようなマクロな情報を生物はつくりだしているといった報告に惹かれたのです。例えば、心臓の細胞をばらばらにすると、ひとつひとつ違った振動をしていますが、それを集めると、相互に引き込み≠ェ起こって、まとまったひとつの動き――一分間に六〇回とかで拍動するわけですね。これはすごいと思い、このような機械をつくってみたくなったのです。これまでの強ければとか、壊れなければとか、性能が出ればいいとかいうのではなく、バイオソフトと言いますか、生命的な自律性を組み込んだような機械が開発できるのではないか夢見たわけです。その一方で、メカトロニクスが台頭してきた時代でもあり、情報化社会に向けていろいろと議論がなされていたのですが、その本質は情報化というよりはむしろ生命化にあると私には予感されました。

 このような状況にあって、生命システムと情報について研究せねばならんと、もう勝手に決め込んだのです(笑)。怖いもの知らずといったところです。とはいえ、生き物の世界にはそれまで全く無縁だった。それで、まずは生き物に触れる必要があると思いました。その場合、人間や動物でもよかったのですが、植物を扱ってみることにしました。植物というのは、脳や感覚器官が分化していないし、動物のような神経系もないから、部分、部分がどのように情報をやりとりしているのかとても不思議に思ったのです。

 どこか枝を折られても適当に自己修復して全体としてはうまく機能していきますよね。この時、枝が折れたことを植物自身はいかに知るのかとか、そもそも植物は自分の姿の全体、かたちの変化を知っているのかどうか、根や茎は、障害物の存在を予見しているかのように避けて進みますが、その仕組みはどうなっているのかなど、興味がつきないのです。

 さらにいえば、動物と違って、植物は移動しませんから、動物よりも環境の変化に柔軟に対応しているようにもみえます。このように考えていくと、一つには、植物をモデルにした機械やロボット、情報ネットワークなどがこれまでなかったように思えてきた。もう一つは、植物同士の情報のやりとりが、コミュニケーションといってもよいかと思いますが、いかに行われるのかという問題ですね。さらに付け加えるならば、人間や動物にとって植物はいかなる存在なのかという問題なども取り上げられたらと、研究を進めていくうちに考え始めました。

 

A|あくまでも植物ということですね。

三輪|植物はどうやって部分と全体をつなげているのかというのが、よく分からないのです。たとえば、茎は光の方向に向かって生長しますが、そのことを根も感知できていないと、全体的なバランスがとれなくなってしまうわけですね。生長はホルモンの移動により行われますが、その移動方法を決める情報を植物全体で共有する必要があります。しかも環境は様々に変化しますから、それらにリアルタイムで応答するためには、決まった情報のみが準備されていればいいということでは上手くいかないと思うのです。その場合、脳がありませんから、どこで情報を創っているのか情報源がよく分からない。部分での出来事を全体がいかに知るか、あるいは部分としての細胞や器官が自身を全体のなかにどう位置づけているのか、とくに植物は動物と異なり、生長し続けますので、このあたりは非常に面白い問題を含んでいます。また、神経ネットワークとは異なる方式で情報が伝達、共有されるようなネットワークがあってもおかしくはない。それで、一時期、経絡ネットワークや気の流れのようなものとつながるのではないかと思って研究したりもしました。

A|植物は助け合っているようで、

やっぱり縄張りもあって、

といわれますが。

三輪|一〇年ぐらい前から、実際に現場で何が起きているか見てこないことには、本当の植物の姿はつかめないのではないかと思い、フィールド実験を行っています。西表島のマングローブや月山のブナ、富士山の原生林など、いろいろなところへ出かけていきました。この四、五年は熱海の植物研究園に残っている自然林にでかけ、そこに生息している樹木相互間の関係性について調べました。また、比較として、吉野のスギの人工林についても同様の実験を行いました。

 実験は、樹木に電極を挿入して、樹木の生命活動と密接な関係がある極微弱な生体電位変化を導出することにより行われます。脳波や心電図を測るのとおおよそ同じ方法です。これを三〇〇本近くの樹木を対象に、広範囲にわたって計測できる装置を学生諸君が手作りで開発してくれました。こういう雛形のない装置を開発してしまうところが、機械工学科の学生らしいところです(笑)。

 自然林は十五、六種類ぐらいの樹種から構成されていますが、それぞれの樹木の生体電位波形を見比べてみると、いくつかのグループに分けることができます。その場合、面白いことに、同じ種類の樹木同士でグループを作るというのではなくて、異なった種類の樹木をまじえて、二、三〇本ぐらいずつのグループを作っているのです。そして、それぞれのグループの構成メンバーが一年間ずっと一緒かというとそうではない。例えば、四月、九月、十二月と比べてみると、そのグループ構成が明らかに変化しています。つまり、グループのつくり方が閉鎖的でなく、時間経過とともに入ったり出たりする樹木があるのです。したがって、それぞれのグループは多中心的、横断的に形成されます。区割りしたような構造にはなっていないのです。

A|一極構造にはならないわけですね。

三輪|生体電位変化(DC成分)にはいずれの樹木も日周性や年周性が認められます。植木鉢などに単独でツバキやアオキ、シロダモなどを植えた場合、この生体電位波形は樹種によってそれぞれ異なった日変化パターンを示します。このような波形パターンが樹種によって、いかにして獲得されたのか不思議ですが、それはともかくとして、森のなかでこれらの樹木が一緒に分散して生息するとなると、それぞれのグループに波形が変化してしまうわけですね。つまり、変化する環境のなかで相互に干渉しあって、いろいろな波形が生成されるけれど、それがランダムに行われるのではない。個別性がおさえられて、場を共有するような形でグループが形成されると解釈されます。実際、同じグループのなかの樹木同士の波形には、相互引き込み的なコヒーレンシー(整合的関係)があります。

 森自体に脳のなかにみられるようなネットワークが存在するような感じさえ受けるのですが、このようなグルーピングがどのようなメディアで行われ、それによって樹木の生命活動においてどのような情報の共有がされているのかといったあたりが今後解明されてくると、面白いかもしれませんね。これは勝手な想像なのですが、植物的なインターネットのようなものも考えられるのではないでしょうか。現在の通信網はシャノン情報を基本とした記号化された信号を送受信しているわけですが、場を伝え合うような情報通信を考える上でのヒントになるようにも思います。とはいえ、これだけですと極めて曖昧で不確実な通信しかできないかもしれませんけどね(笑)。

 とりあえずは、森の中を歩いている人が樹木に信号を入れたら、百メートル先の樹木に取り付けたディスプレー上にそれが出てきたり、どこを歩いているかを樹木を介してキャッチするようなことをしてみたいですね。

A|場を伝えあうというのは?の

三輪|植物の根は、自身の周りにごく微弱な電場を作っています。その媒体はカルシウムやプロトンなどのイオンであるといわれてます。この電場は非常に面白い性質をもっています。たとえば、根が障害物を迂回する場合、どちらに向かうかということを自分で決めつつ生長していく必要があります。これは一種の自己ナビゲーションともみなせます。この場合、根を構成しているそれぞれの細胞をコーディネーションする情報が必要になるわけですが、根には神経がありません。ならばホルモン系ということになるけど、それでは伝達速度が遅い。そこで、この電場を利用しているのではないかと考えたのです。事実、この根の周りに電場パターンをうまく創れないと、生長速度が小さくなったり、障害物をうまく回避できなくなるのです。また、地上部の環境を意図的に変化させた場合、例えば音刺激を茎や葉に与えた時にも、根の電場は変化します。

 いずれにせよ、電場は根が自身と外部環境とをつなぐための一種の生成的ともいえるインタフェイスとして働いていることが実験的にわかってきました。自身の周りの環境の変化を感知しつつ、根は生長していくわけですが、どちらに進むべきなのかを電場を生成することによって根全体に指示しているといってもよいかもしれませんね。

 仮にそうだとすると、根を二本、三本と近づけた場合にも、電場が互いのインタラクションに関係してくる可能性があります。そこで、二本の根を並べて実験してみたのです。そうすると、互いの根の間で電場同士がインタラクションして、しばしばカップリングするような結果が得られました。面白いのはカップリングすると、互いの生長速度がほぼ同じになるのです。また、三本になると、互いの電場形成挙動は大変複雑化するので、一概にはいえないのですが、二本がカップルになる傾向が多く観察されました。この場合、残りの一本がカップリングした二本と無関係ではないのです。というのも二本だけにして、一本を取り除いてしまいますと、それまでのカップリングした状態が崩れてしまうからです。まだ実験数が足りないので、今後さらに確かめる必要が多々ありますが、これらの結果は、電場が場の情報のような役割を担っていて、互いがインタラクションすることで、場が共有されることを示唆しているように思われます。

 森のなかでも、案外、電場にみられるような場的な情報を介して、樹木と樹木あるいはグループ間で情報の生成と共有が行われているのではないかと想像しています。このような方法あるいは仕掛けがないと、森自身が多様性を維持していくことは難しいのではないでしょうか。

B|ひとつの森を全体としてとらえると、

その全体が脳を形作っているというか、

たとえばひとつがコミュニケーション上で

消滅しても、どこか別の場所でそれを

修復していると言ったら変ですけれど、

つながりがどんどん別のところへ

移行していくという。

三輪|自己非完結的な設計になっているのだと思います。これが通常の機械システムと大きく異なるところですね。森という舞台で、それぞれの樹木が役者として演じているとした場合、そこに別の役者が入ってきても、例えば、それが人間であろうが動物であろうが、それらを排除することなく包み込んでしまうような設計になっているのではないでしょうか。自然林などは樹木たちが皆で一緒になってコヒーレントな関係を生成したり、崩したりしながら、場づくりを行っているようにみえます。これに対して、吉野のスギの人工林でも同じような実験を行ったのですが、森のなかに入ってみると、自然林やブナ原生林などと違って心が休まる場所がないのです。森全体が排他的な論理で動いているような感じです。実際に計測結果をみても、同じような電位波形ばかりです。間伐ごとに樹木群全体が一様化していき、あまり面白くない。

 間違っているかもしれませんが、竜安寺の石庭などは、自然林が持つような空間的な非完結性を写像したのではないでしょうか。このような観点から、今、茶室とか庭園などを捉えなおしてみているのです。その場所に入ると、完結する方向に向かうような働きが生じる空間の設計ですね。これは都市設計のみならず、機械の設計にも関係してくると思うのです。道具というのは人間が関わることで、機能が発揮されると同時に、人間をも育てるようなところがありますが、今の自動機械や自動システムにはそれがありません。完結したクローズドな設計になっているので、人間がそれらにあわせざるをえないわけです。

B|それはいいですね、

何かがそこに加わることによって、

コンプリートになるというか、

いろんなものが加われるわけですね。

加わることによってコミュニケーションが

始まるという、ほとんどもう定義みたいな

ものですね、コミュニケーションの。

あるいはnマイナス1からなにかがはじまる。

それを森が、植物は動けないけれども、

その空間性の中で持っている

ということだったら、

これは本当に応用できますね、人間に。

空間性、時間性ということが、

そこで交わるわけでしょうけれど。

三輪|空間性と全体性は似た概念だと思っていて、これを「場」と呼んでもいいのですが、これらが互いの間でどう表現され、共有されるのかが非常に重要ですね。これは自身を場のなかにどのように位置づけるかという問題でもあります。根を構成する細胞は自分が全体のなかのどこに位置しているかを知っているから、自分の役割も分かるわけです。

 最近ちょっと面白い実験をしまして、車いすに乗っている人が周りを見て、その視線方向の映像情報を車いすを押す人が、ヘッドマウント・ディスプレーを介して見て、目標点に向かって車椅子を進めていく。一種の二人羽織的な実験です。この場合、車椅子に乗っている人から送られてくる映像に追従して状況を認識し、車椅子を動かしていては、障害物などをうまく避けられないのです。つまり、フィードバック的な知覚/運動系ではうまく車椅子を進めることができません。では、思い通りに車椅子が進んでいる時に、どのようなことが起きているのかというと、車椅子の搭乗者が見る方向を、車椅子の操縦者が〇・五秒程度つねに先取りして見ているのです。それも無意識的に先取りしているのです。ここで重要なことは、このような動的コヒーレンスが互いの視線方向に生成された時に、互いの間でコンテキスト(意味的な状況)の共有が起きているということです。あるいは互いのタイミングがあっているといってもいい。

 この結果は、体験したことがない環境のなかを自分自身でナビゲーションしていく時に、行為には二つの働きが必要であることを示唆しています。一つは、自分はこっちに行きたいという意識レベルでの働きですね。もう一つは、自分を全体のなかに位置づける無意識レベルでの働きです。後者は意識される以前に入ってくるような身体感覚とも呼べるものではないかと思ってます。この二つの働きがうまく交互に循環して自己の内部をまわることで、辻褄のあった行為が創出されるのではないかと、今のところ私は考えてます。

A|それは植物のそういう

全体性というようなことと絡まってくる。

 

三輪|根が生長していく時も、このような二つの働きが必要なのではないかと思ってます。生長は根の行為ですから、行為することで、場の状況が変わる。その場の状況を把握して、次に進む方向を決める。そして行為する。この場合、植物に意識レベルの働きがあるかどうかは分かりません。多分ないと思いますが、植物の行為もやはり二通りの働きから創出されるのではないか。こういうと何だか擬人化しているようですが、私の場合は、植物から研究を始めましたので、むしろ植物の方から人間を捉えているといった方がよいのかもしれません。植物は脳や神経系がありませんので、ある意味で、人間よりも身体感覚や身体性の問題について接近しやすいようにも思えるのです。人間にも植物的な身体感覚というのがあるのではないでしょうか。

 また、先の隣接した根の生長速度が互いにあってくるという結果も、電場のインタラクションを通じて全体性が互いに共有されることで、はじめて実現されている可能性がある。そうでであれば、人間のコミュニケーションでは計測が困難な「場」の状態や全体性といったものを、植物ならば外から電場を操作したり制御することで、つかまえられるかもしれないといった期待も生まれてくるわけです。

 人間のコミュニケーションに関しては、タイミングの計測に関する実験的研究などを五、六年前から始めているのですが、互いの身体的行為が無意識的に同調することで、場が共有されることが分かってきました。ただ、場が共有されることはコンテキスト共有の必要条件であって十分条件を必ずしも満足するものではありません。それには無意識レベルと意識レベルの二つの働きの関係性のダイナミクスについて検討する必要があります。 

A|今言語の限界ということが

語られますけれど、

もしかしたらある程度ノンバーバルな

コミュニケーションを

実現できるかもしれないと。

三輪|そうですね。ただノンバーバルというふうに言うと、意味が既についたサインを表現する身振り、手振りなんかも入ってくるので、適切なのかどうか。今、重要なことは、意味がいかに生成するかという点です。そこで、問題になるのは、表現できることとできないことが存在するということですね。例えば、「この部屋は広いなあ」といったアクチュアルな身体感覚や気分、雰囲気のようなものは記号化するのは極めて難しい。このような非明示的な情報は無意識的に身体を介して表現されるので、対面でコミュニケーションしているときは、比較的コンテキストが互いに一致しやすい。しかし、インターネットのようなITコミュニケーションでは一般に非対面で、記号のやりとりしか行われませんから、明示的情報のやりとりのみで、互いが情報を解釈することになります。インターネットで沈黙や間は送れないのです。

 明示的な情報は自他分離的であり、非明示的情報は自他非分離なわけで、後者を送ることができないのです。これはコミュニカビリティ、すなわち交流可能性の問題とも密接な関係があります。相手の話にあいづちを打ったり、うなずいたりするのは、相手にメッセージを伝えるというよりも、むしろ相手との交流可能性を形成するための行為に他ならないわけです。コミュニカビリティを互いの身体行為を介してつくりあげていくことで、コミュニケーションにおけるコンテキストが共有されるとすると、それは場が共有されることとほとんど変わりがないといえます。

 そこで、この問題を何とかしようということで、最近ではタンジブル・ビットのように非明示的な情報を扱うためのインタフェイスの研究が、我々も含め報告されるようになってきました。これによって、コミュニカビリティがかなり改善されると思いますが、コンテキストの共有を支援し、我から我々へといった互いの信頼性が創出されるようなメディアにもっていくには、さらに踏み込んで、明示的表現と非明示的表現の関係ダイナミクスについて研究し、両者を伝え合うことが可能なインタフェイスの開発を目指す必要があると、私たちは考えています。

B|それは記号論が解決されちゃう

という感じですね、本当に。

三輪|いやそこまでは(笑)。科学と工学、哲学、社会学、芸術などがブリッジされる必要はありますね。

A|バーチャルなインターネットの

コミュニケーションがそうではなくなる、

そうではないものに近づく可能性が

出てくるという感じですか。

三輪|そうですね。「今、共にここに」という共存在感ですね。それを喚起したり支援したりすることや、他者と自己とをともにみる自己の働きを支援したりする技術は、以前から清水博教授が指摘されていますように、コミュニティ支援や危機管理などにおいて極めて重要なのですが、その設計原理はまだ確立されていません。しかし、可能性はあると私は思っています。互いが発信する個々の身体的情報を集めて、それらを統合する場の設計ができるかどうかですね。とりあえずは、バーチャルな場づくりから始めてみるつもりです。これは創造性や信頼性が集団において創出されるような、バーチャルコミュニケーションシステムの開発にもつながるはずです。

 最後に、人間にとっての植物は空間的な存在であるように思われるのです。「先人、木を植える。後人、その木の下で憩う」という言葉があるのですが、この場合、植物は、先人と後人という、歴史を隔てたコミュニケーションが成立する空間を提供しているともいえます。これはもう人と人をつなぐコーディネーター役を植物が果たしているわけです。言い換えると、世代間をつなぐインタフェイスということになります。例えば、ゲーテと私が対話することが可能なインタフェイスや語り部のようなインタフェイスです。さらにいえば、匠の技術ですとか、企業や大学に培われてきた身体性を継承できるようなインタフェイスも考えられます。異文化コミュニケーションも含めてよいかと思います。今こうして取材を受けている間でも、ここに植物があるとないとでは場の状況が違いますよね。こんなことをいっていても技術開発につながるわけではないけれど、植物と共存在的に構想することは、私にとって大きな意味を持っているように思われます。植物の研究を始めたことによって、いろいろな分野の人と出会えたことは紛れも無い事実なのですから。

三輪敬之[みわ・よしゆき]

1947年愛知県名古屋市生まれ。

1971年早稲田大学理工学部機械工学科卒業、1976年同大学院博士課程修了。

早稲田大学理工学部助手、講師、助教授を経て、1981年同教授となり、現在に至る。

2000年4月より同大学「食・農・環境問題プロジェクト研究所」所長を兼任、

工学博士。専門は生命機械工学、植物の生命情報システム、

共創コミュニケーションにおける場の技術、パフォーマンスロボットなどの研究に従事。

共著書に『場と共創』(NTT出版)、『生命機械工学』(裳華書房)などがある。

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