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文学と科学のインタフェイス 2) -- 風間 賢二



interface: science and literature

文学と科学のインタフェイス

KAZAMA Kenji

風間賢二

オートマトンが怖い|

Part

02

風間賢二[かざま・けんじ]

1953年東京生まれ。武蔵大学人文学部卒。

評論家・翻訳家。

早川書房編集部退社後、幻想文学や英米のポストモダン小説の紹介・翻訳に従事。東京都立大非常勤講師。1997年に『ホラー小説大全』(角川選書)で第51回日本推理作家協会賞評論部門受賞。その他の著書に、『ダンスする文学』(自由国民社)、『スティーヴン・キング』(筑摩書房)、『オルタナティヴ・フィクション』(水声社)、『ジャンク・フィクション・ワールド』(新書館)などがある。主訳書に、レイ・ガートン『ライブ・ガールズ』(文春文庫)、アーヴィング・ウェルシュ『スマート・カント』(青山出版)、スティーヴン・キング『魔道師の虹』(角川書店)など多数。

周知のように、メアリー・シェリーの不朽の名作『フランケンシュタイン』(1918年)で語られる怪物は自動人形(オートマトン)――機械人間ではなく、人造人間である。オートマトンの文脈でいえば、美少女人形オリンピアの登場するホフマンの中編「砂男」(1816年)のほうを、ここでは取り上げるべきだが、科学とテクノロジーに対する人類の礼讃と脅威という二律背反する思考を神話化した作品として、やはりなんといっても、『フランケンシュタイン』について触れておかねばならない。

 とはいえ、青年科学者フランケンシュタイン博士が墓を掘り起こして死体のいいとこどりをして創造した怪物は、ガルヴァーニの電気化学反応やエラズマス・ダーウィンの進化論について言及されるものの、どちらかといえばテクノロジーの申し子というより、十六世紀のヘブライ伝説の泥人形ゴーレムや錬金術師パラケルススの試験管の中の小人ホムンクルスといったオカルティズムの産物に近い。しかしながら、その人造人間が西欧の十九世紀を通じてテクノロジーの脅威のメタファーとして機能することになったのは、その巨大さのゆえである。

 ジェームズ・ホエール監督の傑作映画『フランケンシュタイン』(1931年)のおかげで、フランケンシュタインの怪物といえば、額が突き出て広く、顔は傷だらけで、腫れぼったい目をし、口が大きく、首の左右からボルトが突き出ており、ロボットのようなぎこちない歩き方をする凶暴なウスノロといったイメージが蔓延している。しかし、原作では、容姿はさほど悪くないし(皮膚がちょいと黄色かったりするが)、頭脳は明晰だ。ただし、異様にデカイ。それが人に脅威と嫌悪感を与えるのである。

 もちろん、怪物の巨人性は、当時の新しい美の概念――崇高(サブライム)に由来する。すなわち、エドマンド・バークが『崇高と美の観念の起源』(1756年)において、美とはちいさいもの、女性的なもの、人の心を満足させるものだが、それに比し、崇高とは巨大なもの、男性的なもの、人の心を畏怖させるものと定義され、これがロマン派の芸術家たちを中心に一世を風靡した経緯があった。

 だが同時に、人造人間のサイズの大きさは産業革命以降のテクノロジーの巨大化現象のメタファーとしても当時の人々に機能したとおぼしい。

 実は、十八世紀末から十九世紀にかけて、広大な建物や工場の中、あるいは巨大な機械のかたわらで働く人々を描いた風景画が人気を博した。たとえば、ジョージ・ロバートスンやジェームズ・ネイズミス、ジョーゼフ・ライト、ジョン・ファーガスン・ウィアーなどが知られているが、みなこぞって、巨大なエンジンやメーター、ハンマー、溶鉱炉、あるいはさまざまな機械の威容を描き、その横に対照的に小さな人間をつけ加えている。

 その結果、人々は圧倒的なスケールのマシーンを礼賛し、テクノロジーの無限の可能性に誇りを抱いているようにみえる。だが絵画によっては、巨大なマシーンのおかげで人間は卑小化され、テクノロジーに支配され、奴隷として働かされている状態に脅威を覚えているかのようにみえる。つまり、巨大なマシーンのイメージは、母なる自然を征服して支配する男性的な科学文明を築きあげた人間の英知に対する称賛であると同時に、自らが創造したものに逆に支配され、赤子のように無力な存在にまでおとしめられてしまう人間の不安がこめられている。フランケンシュタインの人造人間が神話にまで高められたのは、そうした産業革命以降のテクノロジーに対する人間のアンビヴァレンツな感情が作用しているのだ。

 礼賛と脅威の思いが複雑にからみあったマシーンと人間のスケールに関して、当時、おもしろい実例がある。それは、一八五一年のロンドン万博に出品された「拡張人間」(エクスパンディング・マン)である。デューニン侯爵考案のこのマネキン人形のような代物は、何千枚ものスライド方式の金属版とチューブで作られており、その姿を普通の人間サイズから巨人にまで自在に拡大したり縮小したりできた。同時に、人間のいかなる体型をも再現できるというのがミソだった。

 基本的に、「拡張人間」は画家の人物デッサン用、および仕立屋のために作られたのだが、万博が開催された高名な水晶宮と等しく、十九世紀のテクノロジーが達成した大いなる成果のひとつとみなされ、「美しい機械仕掛けの作品」と評され、あまつさえ、ギリシアの神々やギリシア彫刻にまでたとえられて、数多くの万博展示作品のなかでも審査委員メダルを受けている。機械の巨大化と人間のサイズにこだわった当時の人々の考えをうかがい知ることのできるエピソードではないだろうか。

 ところで、テクノロジーの巨大性と自動人形の脅威と悲劇を語った短編がある。『白鯨』で知られるアメリカの作家ハーマン・メルヴィルの「鐘塔」(1855年)だ。

 ルネッサンス期のイタリアが舞台。主人公は天才的な機械師にして建築師のバンナドンナ。かれは当時としては画期的な建造物――鐘塔と時計台とが一緒になっている建物を製作しようとしている。その鐘塔は不遜にもバベルの塔を想起させるほどの高層建築である。しかも、その頂にのせる時を告げる鐘はマンモス級のサイズ。これに恐れをなして逃げる職人もいたが、堅忍不抜にしておのれの創造物のためなら冷酷非道にもなるバンナドンナは、恐怖にかられた職人を撲殺してしまう。しかし、未曾有の巨大なテクノロジーの産物をこの世に実現させることは、人類にとって自然に対する勝利とみなされ、バンナドンナは人殺しの咎を受けない。高層の塔と巨大な鐘にまして、人々を驚嘆させたのは、鐘をつく役目が人間ではなく、十二体の乙女の自動人形であることだった。そして鐘塔の落成式の前日、バンナドンナが自信をもって考案した機械仕掛けの人形たちをより精巧にするために塔にひとりでのぼったとき、悲劇が起こった……。

 そびえ立つ巨大な塔とそれにかぶさるように置かれた鐘のイメージから想像がつくように、「鐘塔」はかなりセクシュアルなシンボリズムに満ちた作品だが、ここではそれには触れない。むしろ、そのテクノロジーの産物である塔と鐘の巨大性に注目したい。つづいて、十二体の自動人形が乙女であることにも。つまり、男性的なテクノロジーが女性を支配・隷属化しているということだ。このことは、彼女たちがドミノ仮装衣を着せられていることからも明白である。Dominoとは、すなわち、Dominus(支配者、統治者)の男性形であり、俗語で黒人(奴隷)を意味するのだから。同時に、皮肉にもバンナドンナは自らが創造した自動人形が手にしているハンマーによって命を落とすのだが、Dominoには、やはり俗語で「打倒の一撃」という意味もある。「鐘塔」は、人間の神(自然)に対する奢り、テクノロジーに対する礼賛と脅威、そして創造主に対する奴隷的存在たる被創造物の復讐的反逆――テクノロジーの暴走に関する恐怖を、エロチックなイメージを散りばめて語った知られざる秀作である。自動人形テーマとして、『フランケンシュタイン』とヴィリエ・ド・リラダンの傑作『未来のイヴ』(1886年)とをつなぐ中継ぎ的作品として銘記されるべきだろう。

巨大な機械

拡張人間

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