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[インタビュー] 変容する医療 ― 新しい医療技術はどう受け入れられるべきか -- 村上 陽一郎




(P36-39)

Interview

特集 

生体情報──ヘルスケアの現在

今回の特集で伝えてきたように、

腕時計型や指輪型などのウェアラブル機器で生体情報を採るという、

これまでになかった医療技術が登場しつつある。

これらの新しい技術にはメリットがあると同時に、安全性やデータの扱われ方など、

社会的に問題となる事象を含んでいることも確かだ。

科学技術や医療技術の問題について倫理面から発言を続けている村上陽一郎氏に、

医療と技術が抱える問題について聞いた。

変容する医療

――新しい医療技術は

どう受け入れられるべきか

村上陽一郎

国際基督教大学教授

むらかみ・よういちろう

1936年、東京生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学院人文研究科博士課程修了。東京大学先端科学技術研究センター長を経て、現在国際基督教大学教授。専門は科学史、科学哲学。

(写真キャプション)

Photography by Atsuki Iwasa

メリットの裏にはデメリットがある

 ウェアラブル・コンピュータによる生体モニタリングに限りませんが、まずいえることは、すべてのものにはプラスの面とマイナスの面があるということです。個人的な話から始めますと、私には期外収縮、いわゆる不整脈があります。病院で心電図を採っても異状は見えてこないのですが、二四時間ウェアラブルの計測器を着けてずっとモニタリングしていれば、おそらく引っ掛かってくるでしょう。生体モニタリングのプラス面としてまず考えられるのが、このように、二四時間のモニタリングによって今までフォローできなかったような情報が採れ、その症状に対して何らかの対応が可能になるという点だと思います。

 一方で、知人の循環器系の医者は「問題なく生きているのだったら、あまり気にしないほうがいい」と言います。「心臓は心の影響が強いところで、心配すればするほど悪くなるから気楽にしていたほうがいい。本当に悪いのなら、それはそれでまた別の対応があるから」と。二四時間のモニタリングというのは、たとえ無侵襲だったとしても、精神的にはそれこそ集中治療室に入っているのと同じ状態といえますから、気にしすぎて、かえって不安を生み出してしまうなどの影響が出る可能性もあると思います。

 今のは非常に卑近な例ですが、要するに問題は、何かよいことがあれば、その裏にはおそらく悪いことがあるということです。今、生体情報に限らず、工学的な手法が生命ないし人体に対していろいろな形でコミットしてきています。しかしながら、新しいことを試みる技術者たちは、よいことに違いないと思って開発しているわけで、裏の面について考えることは少ないのではないでしょうか。さらに、医療の面で厄介なのは、この表の部分、プラスの部分に非常に期待している人たちが、確かにいるということなのです。

需要があることの難しさ

 医療全体の話で考えると、プラス面に期待する人がいるという、そのもっともわかりやすい例は生殖医療です。不妊症で悩んでいる人たちの、どうしても子どもが欲しいという切実な訴えに対して、今の先端技術は、クローニングという技術を用いてでも応えることができます。一方、クローニングはちょっと問題が多すぎるのではないかと、社会全体がブレーキをかけようとする。そのような綱引きは、つねにおこなわれています。

 臓器移植もそうですが、そこに技術があれば、その恩恵を受けたい人は確実にいるわけです。だから必ず、それは問題なのではないかという社会の反応に対して、「では私の望みはどうしてくれるんだ」という反論が出てくるのです。

 確かに人間をつくりだすクローン技術というのは、有性生殖ではない方法で子孫を残せる、つまり一個の個体を生み出せる技術ですので、ややグロテスクかもしれません。しかし、部分クローニング(医学では「治療用クローニング」と呼ぶようです)の場合はどうでしょうか。これまで他人の臓器を移植していた場合でも、自分の細胞からクローニングして細胞をつくり、そこから採りだしたES細胞で膵島(ランゲルハンス島)へ移植すればすむかもしれない。このような場面で需要が多いときに、クローンは絶対にダメと言えるかどうか。とても難しい問題だと思います。

 クローンについての議論にはもちろん合理的な議論もありますが、何となくおかしいとか、グロテスクだとかいった感覚的な反感が絡んでいるケースが多いのも事実です。本気で議論していくと、クローンはなぜダメなのかについて、誰もが一〇〇パーセント納得できるような理論的裏付けは、見つからないだろうと私は思います。

 もちろん、だからといって何でもやっていいわけではない。しかし、命が懸かっていたり、自分や子どもの人生が懸かっていたりする場面で、その人が何とかしてその苦しい状態から抜け出したいと思うことを批難することはできないでしょう。そこにはもちろん社会的・倫理的な問題が付きまといますが、人の生命を扱う医療という領域においては、それを一刀両断にして、ここから先は絶対にいけない、という言い方はできないのではないかと思います。

需要には応えるべきなのか

 では、需要があるものはすべて認め、技術をもってして応えるべきなのだろうか。

 古くから議論されてきた自殺はどうか――。ここに自殺したいと思っている人がいて、自分は自殺を手助けする技術を持っているとします。だからといって、誰もが簡単に手を貸すことはしないでしょう。「医者は命を助けることが目的なのだから、自殺の手助けはしない」というヒポクラテスの誓い以来、医者はずっとそれを主張してきましたし、社会もそれを期待してきました。つまり、すべての需要に応えるべきかという問題に、「すべきではない。たとえ需要があるにせよ、それに応えるべき技術には限界があるはずだ」と考えられてきたわけです。

 ところが現在、すでにオランダでは公に安楽死が認められていますし、今後それに追随する国もかなり出てくると思われます。そういう現状においては、医療の中で自死を幇助することさえ、一二〇パーセントいけないとは言えなくなってきています。技術と需要の問題は非常に難しい状況におかれているといえるでしょう。

 では、技術の暴走を防ぎ、あまりにも野放図に伸びていく人々の需要を節度あるものに収めるには、どうすればよいのでしょうか。

 技術と需要が倫理的・社会的な問題を生み出すときは、最終的には社会がどこかである種の線引きをするしかないと思います。おそらくそれは時代によって変わってくるでしょう。社会の中で、誰もが十分には満足していないけれど、誰もが十分に不満足でもないというくらいのところに線を引き、その線はお互いに立て前として守ろうということですね。

 ただし、そこから少しずつはみ出た事例を絶対に許さないというのも困ります。行き過ぎた事例ばかりではなく、行き過ぎない事例についても同様です。たとえば、仮に私の子どもが交通事故に遭って脳死状態になったとします。その臓器を誰かにあげてくれと言われた時に、私が絶対にイヤだと主張したら、法律的には許されていても、その意志は尊重してもらわなければならない。そこでひどくプレッシャーをかけたり、みんながしていることなのになどと、社会全体で批難されては困るのです。

 個々人が自分で判断したことが、そのとおりにできるような社会でなければいけない。どちらの立場でも、一人一人が自分の人生を懸けた決断をしている限り、尊重されるべきです。そのように考える以外、この問題には対応ができないのではないかと思います。

モニタリングは管理でもある

 話をウェアラブル・コンピュータによる生体モニタリングに戻しますと、まず最初に気になるのは安全性の問題です。携帯電話がペースメーカーに与える影響が問題視されていますが、同様に、リモート・センシングで飛んでいるデータがどれだけ信頼性があり、どれだけ安全性において保証されているか、まだわかっていません。もちろん技術的には策を講じているのでしょうが、人の命にかかわる以上、一二〇パーセント安全ということを前提に進んでいって欲しい。そういう点では、その技術はまだ、誰もが納得する領域にあるわけではないと思います。

 もう一つ気になるのが、モニタリングされるという行為は、別の見方をすれば、管理に身を委ねることだという点です。管理されているほうが健康維持にはよいという考え方もありますが、その状況をむしろ不健康だと感じる人もいるでしょう。モニタリングされている状態では、何か異常が起こったらすぐに管理センターが対応するわけですが、これがどのくらい有効なのか、もっと検証する必要もある。もちろん例外もあるでしょうけれど、人間の身体というのは、日常的によくなったり悪くなったりしながら、全体としては放っておいても治るというバランスの中にあると思うんですね。集中治療室に入っている患者さんにとっては、心拍数、血圧などの生体情報は重要で、少しでも異常値を示せば対応しなければいけませんが、日常生活において、そこまで必要なのかどうか、検討を重ねる必要がありそうです。

 生体情報の取得方法についてもそうでしょう。現在、ウェアラブル機器はどんどん小さく軽くなっているようですが、二四時間のモニタリングをする場合、患者の負担になるようでは実際には使えません。また、GPSなどで位置情報が明確になると、プライバシーの問題にもかかわってきます。しかし位置情報がなければ緊急時に対応ができない。もちろん、致命的な病気を抱えているなど、深刻なケースの緊急サポートとしては有効でしょう。そう考えると、そうした技術を必要とするのは、やはりあくまで特別な場合だと思います。

 また、ウェアラブルによるモニタリングは不妊治療の場合と異なり、当事者がどうしてもこれがなければ困る、という性格のものではありません。こういうものがあったらどうだろうという、提案の段階にあるシステムですね。ですから、これを普及させていくには、まずは、社会全体で、これをどこまでやるのかという共通の合意点をつくりだしていく必要があると思います。

社会で技術をどう受け入れていくか

 いずれにせよ、突出した技術がもたらす結果を、社会全体で受け入れていくには時間がかかります。と同時に、ここまではやりたくないという人も、もっとやりたいという人も出てくることは明らかです。だからこそ、一律にどこかでバサッと切ってここから先はダメと言ってしまうのではなく、社会の中で大体の線引きをしたら、そこから少しくらいの逸脱は許容しつつ、少しずつその線を動かしていくような、やわらかい構造で社会をまわしていくことが大事なのではないかと思います。

 そのために必要なのは、みんながある程度判断するための材料、つまり情報です。判断基準というのは、お互いに情報を共有しあう中からできてくるものですから、今、起こっていることについての正確な情報を、すべての人が共有することが重要でしょう。

 人間がどう生きるかは、個人の問題です。誰にでも、死に方も含めて、自分の生き方を選ぶ権利がある。それを土台にしながら議論を進めていくことが最大の原則だと思います。

技術以外の問題意識も必要

 ウェアラブルによる医療ネットワークの構築は、病気の予防や早期発見に役立ち、膨張し続ける医療費の削減に役立つだろうという国家規模のヴィジョンがあるようです。

 そこで知りたいのは、合理的な根拠ですね。たとえば、実際にシミュレーションをして、誰が恩恵を受け、誰が受けないかを把握する。また、恩恵を直接的に受けなくても、医療費が軽減されるという点でメリットがある、などというように。そうでなければ一般の人には判断のしようがないのですから。

 最後に、あえて付け加えますと、日本国内の医療格差よりも、地球上の格差のほうが実際ははるかに大きいわけです。今でも地球上では、結核やコレラ、栄養失調で死ぬ人がたくさんいます。そこに一〇〇ドルあればもう少し助けることができるのに、必ずしも必要ではないことにお金をかけているような現状があります。地球上の医療の公正さという視点をもつこと――。これは国レベルの話ではありますが、そのような問題意識もどこかでやはりもっておかなければならないと思います。

 一般に技術というものは、社会的な問題を置き去りにしたまま進むことが多い気がします。もちろん、新しい技術を追究する人がいるからこそ社会は進歩するのですが、別の角度から見た問題意識をもつことが、豊かな社会をつくることにつながっていくのではないでしょうか。      (取材・文=桜井裕子)

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