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[コラム] 行為のデザイン 3) 打つことは書くこと? -- 桂 英史


NATURE INTERFACE Column

行為のデザイン#3

ビジュアル: ニシコリマヤ

打つことは書くこと?

桂英史 東京藝術大学美術学部先端芸術表現科助教授

 「見ることは信じること(Seeing is Believing)」ということわざがある。日本語では「百聞は一見にしかず」ということになる。何事かを信じることにとって、見る以上の経験はないということを言い表したものである。なるほど、見るという行為は僕たちの経験にとってきわめて貴重な情報源となっている。

 2001年9月11日の同時多発テロを、世界中の多くの人々がテレビの画面を通じて目撃した。テレビの映像を見た経験を共有している以上、「同時多発テロが起こったなんて信じない」と言い張ることは、ほとんど狂気のゾーンに入る発言である。「(メディアの映像を)見ることは(世界の出来事を)信じること」なのだ。事実、映像を見た僕は衝撃を受けたし、今でもそのことは何かにつけて、思い出したりもする。

 ところが、メディアの映像を、誰もが平等に受け取ることができるかといえば、そんなことは決してない。事実、「9.11」の映像は間違いなく富める国のものであった。飢餓と疫病が広がって今年中に合計で30万人は死んでいくとされるアフリカ大陸に住む人々にとって、「9.11」の映像を目撃していない人の方が多いに違いない。したがって、「9.11」を僕たちと同じように話題にすることもできないばかりか、それを映像以外の手段で伝えるようとすると困難をきわめるはずだ。

 メディアがもたらす不平等さは、貧富の差だけではない。富める国に住む人であっても、「9.11」を「見ることは信じること」として把握している人ばかりではないはずである。目の不自由な人にとって「9.11」は僕たちとは違う経験として心に刻まれているはずである。

 何かの経験を心に刻むことにとって、メディアは欠かせない存在になっていることはまちがいない。心に刻むということは、僕たちの記憶の領域にある出来事や経験をインプットすることである。テレビやインターネットが当たり前だと思っている僕たちにとって、心に刻むことに不平等な事態が広がっていることは否めない。

 そして、問題は「心に刻む」という表現である。「心に刻む」とは、記憶することの比喩である。誰が初めて使ったのかはわからないけれど、これはなかなかすばらしい比喩である。刻むという行為は、たとえば、石に文字や絵を刻むということを人々は今でも墓石や記念碑でおこなっているわけで、記録にとどめることのもっとも原始的な形態を今に残している。刻むことは、何かの物体に傷をつけたり引っ掻いたり記録にとどめることによって、人々の記憶の奥底にある考え方や感じ方を受け継いでいこうという意志のあらわれである。だからこそ、墓地は「Memorial Park」なのである。

 何かの物体に傷をつけたり引っ掻いたりすることが記述(describe)の語源であることは、よく知られている。人類は、文字や絵はもとより、数式や記号など、人間はさまざまなものの記述の形式を生み出してきた。だからこそ、書くということは、人々の記憶の奥底にある考え方や感じ方を伝え受け継いでいくために重要な行為であり続けてきたのである。 そして、僕はそのほんの末席を汚すようにこの原稿を「書いている(writing)」。もっと正確に言うと、キーボードで「打っている(typing)」。「桂さん、いい加減に原稿を書いてください」と本誌の麗しき編集者(本当に麗しいんだぞお)が僕に書くことを促すとき、当たり前の話であるが、方法を問うことはほとんどない。手書きの原稿を渡されるとは思っていないはずである。ましてや、石を刻んだり毛筆で書いたりするとは、夢にも思っていないはずである。タイプされた文字列が電子メールでやってくることを期待して、「原稿ください」と言っているわけだ。

 コンピュータのせいで、「打つことは書くこと」になっている。「打つこと(typing)」は、言うまでもなく活字が基本となっている行為である。タイプライターをイメージしてもらえばいい。あらかじめ与えられたタイプを選んで押すことである。それを考えると、ごく当たり前にキーボードに向かってやっていることが、とても窮屈なものに思えてくると同時に、空恐ろしくなることもある。

 「書くこと(writing)」は「打つこと(typing)」に限らないはずである。誰もそのことを強制しているわけではないのに、合理性への強迫観念だけを理由に、「心に刻む」きっかけを自ら限られたものにしている気がしてくるのである。『特打』とかで「打つこと(typing)」をせっせと練習しているおじさんがいるかと思うと、その様子は滑稽さを遙かに超えて空恐ろしい気もする。「打つこと(typing)」が心に刻むことの重要なきっかけとなっている反面、僕たちはひとつの行為に自分たちの記憶を委ねすぎているのではないか、と思うことしきりでる。

 メディアのテクノロジーは、平等に人々を幸せにしているわけではない。それと同時に、かならずしも僕たちの心に豊かさをあたえているわけではないかもしれないのだ。「心に刻む」ことから考えるインタフェイスデザインが必要とされているのかもしれない。麗しき編集者(くどいようだがホントだぞお)は、このような重要なテーマを僕にあたえてくれている。

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