NATUREINTERFACE.COM
ネイチャーインタフェイス株式会社 info@natureinterface.co.jp TEL:03-5222-3583
ネイチャーインタフェイス > この号 No.10 の目次 > P86_87 [English]

[連載] フェロモンの謎を解く 3) フェロモンと臭覚研究 -- 鈴木 隆


連載

フェロモンの謎を解く

第3回 フェロモンと嗅覚研究

鈴木隆

すずき・たかし

1961年東京生まれ。1985年、早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。高砂香料工業株式会社入社、86〜90年、高砂香料ヨーロッパ研究所勤務。パヒューマー(調香師)としてのトレーニングと実務経験を経て、2000年からTAKASAGO USA勤務。著書に『匂いのエロティシズム』、『匂いの身体論』、『悪臭学人体篇』などがある。

 人間にもフェロモンがあるのかという問いかけは、人間の性行動はどこまで動物的なものなのか、生物としての必然に縛られたものなのかという興味につながることであろう。少なくとも私の場合はそうであり、要するに人間はどこまで動物かを知りたいのである。

 しかし、フェロモン研究の辿ってきた道筋を振り返ってみると、こうした興味は付随的に生まれてきたもので、もっと直接的な関心があったことがわかる。フェロモンという用語が誕生する契機となったのがカイコガのメスの放出する物質であったことを思い出せばわかるように、初期のフェロモン研究の差し迫った目的のひとつは、昆虫の生殖メカニズムの解明がもたらす、害虫駆除や益虫の生殖コントロールであった。つまり、オスをひきつけてやまない物質を見つけ出しそれを合成することに成功すれば、この物質を使ってオスを大量におびきだしたうえで駆除したり、効率的に配偶させることができる。あるいは実際の交尾を阻害することで、農作物に害を及ぼす昆虫の発生を抑えることが期待されていたのである。

 したがって、初期のフェロモン研究は、まずターゲットの昆虫が放出する匂い物質を捕捉し、その中からフェロモンとして働くと思われる成分を同定、その構造を決定して同じものを合成したうえで、それが本当にフェロモンとして働くかを調べるという方向で進んだ。こうしたやり方は、やがて昆虫を超えて哺乳類や魚類、爬虫類においても踏襲されることになるが、同時にさまざまな既存の学問を巻き込んだ新たな興味・関心を呼んでいくのは当然の成り行きだった。すなわち、動物行動学や生態学による、フェロモンという化学信号を使った生物コミュニケーションや行動特性への関心という、いわば「外」の現象へのまなざしと、フェロモンを知覚する感覚器官、その刺激を伝える神経組織や、内分泌や脳に働きかける仕組みといった「内」なるメカニズムへの興味に研究者は取り組み始めたのである。

 現在、フェロモンをめぐる学問の領域は予想外に広く、実際には、広義の生物学、心理学、医学の領域に収まるとはいえ、多くの分野から学際的なアプローチがなされている。ただ、そうした「フェロモン研究」隆盛の前提に嗅覚をめぐる研究の蓄積があったことは強調されていいことだろう。フェロモンという言葉が生まれるずっと以前から、匂いや嗅覚について研究していた人々は、後に性フェロモンという概念によって理解されることになる匂いと生殖行動との深い関連性に関心を払ってきたし、匂いが配偶行動のきっかけとなることにうすうす感づきながら地道に嗅覚メカニズムや匂い物質の知見を積み上げてきた。だからこそ、フェロモンという概念を得て動物における化学コミュニケーションについて多角的に理解を深めることができたのである。

 ただ、前回触れたVNOによるフェロモン知覚と一般的な匂い知覚を比較するとき、これらを一括して嗅覚研究の名のもとに理解しようとすることが果たして妥当であるかどうかという別の問題が浮かびあがってくる。すなわち、匂いとか匂い物質があるのではなく、ある物質を嗅覚レセプターが知覚してその刺激を電気信号として脳に伝え、その情報を脳が匂いとして感じることが嗅覚(すなわち「匂う」ということ)であるという考え方に立てば、脳が匂いとして感じとることはないと思われるフェロモン受容を嗅覚とは別のものとする捉え方もできるからである。

 私自身は、生物学者ではないせいもあるが、人間を思考の主体に置いているので、あたかも匂いという物質が存在するような理解の仕方は認識論上の曖昧さがつきまとうと考えている。言い換えれば、この先フェロモンやVNOに対する研究が進むと、匂いや嗅覚に関するパラダイム自体が大きく変わらざるを得ないのではないかという予感がしている。

 その一方で、分子生物学や遺伝子工学が明らかにしていることからすると、主嗅覚系と鋤鼻神経系はそれぞれ独立した系ではあるものの、そのメカニズムにはかなりの類似性があるのも確かであり、似ているからこそ違いが際立つ状況になっているようである。

 たとえば、両者の受容体は七回細胞膜を貫通したG‐タンパク質であり、そこからそれぞれ嗅球、副嗅球へ延びるニューロンがともに双極性をもつことなどが似ている点であり、一方、その嗅球、副嗅球から出力された細胞が投射する脳の部位には違いがあるとされている。また、マウスを例にとっても、嗅覚受容体をコードする遺伝子は一五〇〇程度(ただし、実際には発現しない偽遺伝子を含む)であるのに対し、VNO受容体をコードするのは五〇〇程度とその数にかなりの違いが見られ、それぞれ独立した遺伝子群を形成している。

 この、主嗅覚系との遺伝子数の違いや、嗅上皮と鋤鼻上皮の断面積の比率の変化を見ると、爬虫類から哺乳類にかけて主嗅覚の重要性が増し、VNOの相対的な地位低下が読み取れるようでもある。嗅覚やフェロモンといったものが生物進化とともにどのような変遷を辿ってきたのかという興味深い問題が、主嗅覚系と鋤鼻神経系の研究が進むに連れて明らかになっていくかもしれない。あるいは、主嗅覚系もフェロモンに関わっている可能性は完全には否定できないことから、嗅覚研究とフェロモン研究は今後も手を携えて進んでいくことが予想される。

 とくに、嗅覚、VNOの受容体であるG‐タンパク質のファミリーは、ホルモンや神経伝達物質の受容体として生体内の分子認識機構の根本を成すと考えられ、実際新薬開発の八〇パーセントがこのG‐タンパク質をターゲットにしているといわれる現代にあって、分子認識、しいては脳の高次中枢機能理解のモデルシステムとして新たな研究者の参入も予想されることから、嗅覚、フェロモン研究は、「これから」が本当に楽しみな領域なのである。

P86キャプション

絵=浅生ハルミン

NATUREINTERFACE.COM
ネイチャーインタフェイス株式会社 info@natureinterface.co.jp TEL:03-5222-3583
-- 当サイトの参照は無料ですが内容はフリーテキストではありません。無断コピー無断転載は違法行為となりますのでご注意ください
-- 無断コピー無断転載するのではなく当サイトをご参照いただくことは歓迎です。リンクなどで当サイトをご紹介いただけると幸いです
HTML by i16 2018/08/22