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[NI特別インタビュー] ハートフル・マシーン−テクノロジーの回帰  -- 黒崎 政男



P36_39

哲学という異質な視点から、人工知能、カオス理論、複雑系等々についてユニークな意見を発信し続ける黒崎政男氏。じつは中学、高校と、機械いじりに熱中するメカ大好き少年だったという。そんな黒崎先生に、現代のテクノロジーが抱える問題点について伺った。

ハートフル・マシーン

――テクノロジーの回帰

黒崎政男

東京女子大学文理学部哲学科教授

聞き手=小原誠之

特別インタビュー

くろさき・まさお

1954年仙台市生まれ。東京女子大学文理学部哲学科教授、NTTオープンラボ客員研究員。専門はカント。東京大学文学部哲学科卒、同大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程修了。パソコン、人工知能、モード、電子メディア論、生命倫理、複雑系など、幅広い関心をもつ。著書に『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』、『となりのアンドロイド』『デジタルを哲学する』など多数。

最古が最善!

――まず、そもそもテクノロジーの進展とは人間にとってどういうことなのか、お聞きしたいのですが。

黒崎――オーディオやカメラという技術を例にとると、それらは一九世紀の終わりに初めて登場した技術ですね。写真術は一八三〇年代だし、エジソンの蓄音機は一八七〇年代。それまでは、音を蓄積するとか、映像を蓄積するなんていうことは考えられもしなかった。これはもう人類的出来事だったわけですね。

 たとえば、ライカが最初の製品をつくったときのことを考えてみます。もちろん売るためにつくってはいるんだけど、一方で、それは人類の画期的な出来事でもあるわけです。そして、そのときにつくり手が注いだ熱意やエネルギー、自負心といったものを投影する製品というのは、非常に魅力的なものです。後になって、いかに大衆向けに安くいいモノを供給するかという意識でつくられた製品とは、これはもうずいぶんと違います。

 新しく発見された、あるいは発明されたものに関しては、いくらおカネをかけてもいいと考える。そしてそこから、コストダウンと一般化、大衆化が始まる。テクノロジーというのは、そういう過程を辿るわけですよね。だから当然、「これはすごい!」というつくる側の自負心のこめられたモノ、無駄とかコストダウンを考えないでとにかく徹底的につくりこむときのモノというのは素晴らしいものになるわけです。

――新しく技術が開発されたときには、人間らしさやスピリッツ、熱意といったものがこめられるけれど、そうしたものは大量生産の過程で取り除かれていってしまうわけですね。

黒崎――そう。一九三〇年代のライカのレンズというのは、質も高いし美しい。ところが今の製品は、売る側の理論としては、三年もてばいいとか、二年目で壊れて構わないというふうになるわけでしょう。我々の経済は、使い捨ての資本主義というか、買い替えていくことで成立していますから、買い替えるようなモノじゃないといけない。つまりすぐに壊れてしまうことが前提でつくられているのです。

 昔のライカのレンズなどはアンチ資本主義というか、これはもう孫、子の代までずっと残るものです。だから個人的に言えば、どこにホンモノを求めるかというと、やはりテクノロジーの「始原」というか、いちばん初めの元のところにどうしても戻ってしまうんです。

――オーディオマニアは、昔の真空管アンプの音なんかにも非常にこだわりますよね。

黒崎――私も学生時代からずっとそうで、そういうアンプをもう何十台つくったかわからないくらい。当時、秋葉原の電気街には真空管屋さんが三軒くらいあったのですが、そうしたお店を回って戦前の真空管を探し出してきたりね。昔の真空管って形もきれいなんですよ。それを買ってきて、前のを引っぱがして、ソケットをつけて、電圧を調節して、とにかく鳴らす。そうやって毎晩毎晩システムをつくっては、オーディオとは何かとか、いい音とはどういうものかとか考えていました。二○代後半のことです。

 当時は原音再生とかいって、二○ヘルツから二万ヘルツまできちっと出せばそれがいちばんいい音なんだといわれていたんです。でも実際にいろいろ聴いてみると、気持ちいい音というのはそうとは限らない。たとえば手回し式の蓄音機なんか、周波数特性からいえば低音は三〇〇ヘルツ、上は三〇〇〇ヘルツで切れている。二万なんか全然出ていないんですよ。それなのに、深く柔らかく、心に染みるような音が出る。不思議ですよね。

――そういえばよく、レコードに比べてCDは二○ヘルツ以下、二万ヘルツ以上を全部カットしているからダメだとかいいますが。

黒崎――違うんですよ。そういうふうに、二○ヘルツ以下の音が聴こえているのにカットしているからダメなんだというのは、進歩思想の最悪の発想パターンです。とにかく出せばいいと思っているけれど、それは違う。余計な低音を切り、余計な高音を切ることによって、じつは本当にいい音が鳴るんです。そういうことになかなか気づかないんですね。

 最初はデータ主義だ、原音再生だとかいって、高音も低音も出せばいいに違いないとやっていくのだけれど、そういうやり方が違うんだということがだんだんわかってくる。わかってくるというと傲慢な言い方ですけどね。そうすると最後には、本当にいい素材に行きつく。たとえばコンデンサにしても、普通だったら五○円とかそういうものを、何万円というようなコンデンサを買ってくる。しかも戦前のものとかですよ。音のよさというのは、どういう洗練された素材を使っているかにかかってくるんです。

 だから、オーディオマニアは、周波数特性じゃなくて、その素材、部品の質にどんどん入り込んでいってしまう。スピーカーも、昔はアルニコという素材を使っていたのが、一九六〇年くらいからフェライトに代わっていったんだけど、マニアの間ではフェライトは音が弱いといわれていて、「やっぱりアルニコの音じゃなきゃダメだね」といった具合に。

 今の製品は、設計なんかはよくなっているはずでしょう? コンピュータでいろいろな特性を計算して設計したりしているんだから。ところがどうも音が劣化していっているようにしか感じられない。だからマニアの志向はどんどん古いものに遡っていくんです。

 普通は、オーディオは「最新が最高」だと思われている。だけどじつは、「最古が最善」なんですよ。これは、現代のテクノロジーに関しての、いい警鐘だといえるのではないでしょうか。

共有される世界観のなかで根付くもの

――科学技術がどんどん進展していく一方で、科学者の言葉はなかなか一般の人にはわからないというか、伝わりません。人工知能やロボット、複雑系といったことが一時のブームとしてではなく世の中に受け入れられるためには、何が必要なのでしょうか。

黒崎――私が人工知能について本を出したのはもう一五年も前になります。コンピュータで知能を実現するということは、じつは人間の知能とか知性とは一体何なのかということを考えることであると気づき、非常に面白いと思ったのがきっかけです。ところがそういうふうに、文系の視点からハイブリッド的に工学系の面白さを読み解いていこうとしたとき、非常に大きな障壁を感じました。そこに書いてある言葉自体は難しいものではないのだけれど、そもそも何を言おうとしているのかさっぱりわからないというような読者の反応が少なくなかったからです。

 そういうテーマが、一○年も経つと新聞に結構出てくるようになりました。人工知能の面白さなどという記事がどんどん出てくる。つまり、そういうことを「わかる」ということは表面的な理解じゃないんですよ。いわば時代精神の中で、みんなが共通に認識していくとでもいうのでしょうか。ですから、ある程度時間を待たないといけないのかもしれません。

――知識じゃないんですね。共通の感性が広がっていないとお互いに理解し合えない。新しい世界観のパラダイムとしてみんなで共有できるまでには時間がかかるんですね。

黒崎――そうそう。だからたとえば、ロボットに心があるか?という問いも、それが体験として実感されてきたときにはじめて、その問いはこういうことだよねというふうに腑に落ちるんじゃないかと思います。そうじゃないと腑に落ちないし、なぜそれが問題なのかもわからないわけですよ。それは知識の量ではない。みんながもっている世界観のある種の大きな無意識の変容のなかでそういうことが理解されてくるんです。

 そもそも思想というのはそういうものですよね。たとえばニーチェの思想。ニヒリズムというのは、簡単にいえばすべての価値の座標軸がなくなることだと言っていたわけですが、当時は何を言っているんだかわからなかった。ところが、一○○年経つと、我々一般市民がその感覚をもっている。前も後ろも横も縦もない、偉いも偉くないもない。すべての権威が崩れてしまって、上も下もない、右も左もない、じゃあ俺たちどうやって生きたらいいんだ?という状況ですね。それはちょうどニーチェが一○○年前に立てた問いなんです。

 一○○年経って、ある思想が一般市民に実感されるようになるのと同じで、機械に心はあるか?というような問いも、やはり時間を経て、時代が変わらないと実感されない。少数の人が言い始めたことが、やがて少しずつ広がって、時間を経て共通の意識になっていく、そういうものなんじゃないかと思います。

「機械の心」を理解する心

――つまり、時代精神というものがあって、本質的にそういう問いが理解されるのは、単に表面的な問題ではなくて、人々の発想というか、意識というか、それが変わるときだということですね。

黒崎――ロボットに心があるか?という問いも、けっして客観的、物理的な問いじゃない。佐渡に金山はあるか?という問いと、ロボットに心があるか?という問いは文法上は似ている。でも根本的に違うわけです。佐渡で金が掘り出されれば、一応金があるというふうにはいえる。火星に生物がいるか?というのも、まあ何とかいえる。でも犬に心があるか?という問いは非常に難しいわけでしょう。犬に心があるというならカエルはどうかとか、カメは?金魚は?じゃあ風邪のウイルスはどうかとか。そこまでいくとじつに難しい。そうすると、そうした問いの答えというのは、何か物理的に割り出されているように見えて、じつは我々との関係でしか出てこないものだということができるわけです。

 ロボットに心を「感じる」かどうかというのも同じこと。たとえばコンピュータが好きな人は、昔はコンピュータに名前をつけるという行為によってそこに心を見出していたわけです。とすると、機械に心があるか?という問いは、あたかも客観的、物理的なテクノロジカルな問いであるかに見えて、人間の社会的な構えというか、他者をどう考えるかということと不可分にリンクしていることがわかるでしょう。

 それは人間の自己理解と対応関係にあるわけです。私とは何か?ということをどう考えるかということと相関的に、ロボットに心があるか?という問いの答えは変わっていくものなんです。人間とは何か?自分とは何か?心があるとはどういうことか?とか、そういう問いと相関している。もしも人間がどんどん機械化していく、あるいは非人間的になっていくのだとすれば、同時にロボットは人間化していくことになるでしょう。つまり、存在として我々が機械のような存在になっていけば、逆にロボットにも心を感じるようになるのかもしれません。

 だから、ロボットに心はあるか?という問いは物理的な存在を問うものではなくて、人間の自己理解の問いなんです。その反映として、答えがある。つまりテクノロジーの精緻さとか発展の問題じゃないんですよ。初めにカメラやオーディオに関して言ったように、高精密度になれば素晴らしいとか、周波数特性が全部上がればそれはベターだという発想があるわけですが、そうじゃないんですよね、心を感じるということは。

 つまり、そのような問い、ロボットに心はあるか、とか人工知能は可能かといった問いは、決してテクノロジーの発展だけに依存しているわけではないのです。じつは我々の人間理解、むしろそっちに深く関与している問題なのだということを知ることが大事なのです。

万世橋にて。

ライカVf(1954)┼

スーパーアンギュロン21mmF4(1958)。

Photography by Masao Kurosaki

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